三国志に登場する英雄たちは家臣が死ぬと涙を見せて悲しみます。
孫権(そんけん)は周瑜(しゅうゆ)など優秀な武将が死んだとき。
死んだときなど涙を流してその死を悲しんでおります。
今回は曹操が群臣の前で恥ずかしげもなく涙を見せて
その死を悼んだ正史「三国志」に登場する政治家・袁渙(えんかん)を紹介していきます。
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袁術に起用される
袁渙(えんかん)は貴族出身の人です。
この時代多くの貴族は周囲の人々に対して傲慢に振る舞う者が多くいました。
しかし彼は貴族出身にも関わらず礼節をもって人に接していました。
黄巾の群雄が割拠彼は中原の戦乱を避けるため、長江と淮水の間に避難します。
ここは比較的に平和な土地でしたが、
袁術(えんじゅつ)がここに本拠を構えた事により、安全な土地でなくなってしまうのです。
袁術は袁渙の名声を聞きつけ「私に仕えないか」と誘われます。
彼は断る理由がないので袁術の申し出を受け、袁術の側近として使える事になります。
袁術は袁渙に様々な質問しますが、彼は正論と論理建てた説明を行います。
袁術は完璧な受け答えをする袁渙を頼もしく感じたそうです。
その後袁術とは呂布軍を迎撃するため彼も阜陵の戦いに参加。
しかし呂布軍の捕虜になってしまうのです。
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呂布の命令に逆らう硬骨漢
袁渙(えんかん)は呂布軍の捕虜になり、徐州へ連れて行かれます。
袁渙はその後呂布に仕えるよう強要され、致し方なく仕える事にします。
呂布は劉備から徐州を奪い劉備と敵対関係になると、
彼は袁渙に「劉備の評判を落とすような悪口を書け」と脅します。
しかし袁渙は断ります。
呂布は頭にきて「劉備の悪口を書けば生かしてやる。
しかし書かないのならお前はここで死ぬぞ」と脅しかけます。
しかし袁渙は笑いながら「私は一度劉備様に仕えた事があります。
この時と同じように今あなた様に仕えさせていただいているのですが、
将来あなた様の元から去った時に同じように悪口を書いてあなた様の評判を下げてもよろしいのですか」
と呂布に問い返します。
この言葉を聞いた呂布は言い返す言葉を無くし、黙り込んでしまったのです。
その後呂布は曹操に滅ぼされ、袁渙は曹操に仕える事になるのです。
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道徳と仁義によって世の中を治める
袁渙(えんかん)は曹操に仕えた時に「あなた様は武力によって乱を平定していかなければなりません。
乱を平定した後、天下の安寧を目指すのならば、乱世によって荒んだ民の心に道徳を教え込むべきです。
そのためには今からあなた様が民に道義を教えるならば
天下にとって大きな幸いとなるはずです。」と進言します。
曹操はこの進言を大いに喜び、彼を都尉に任命し、その後彼を梁国の相に昇進させます。
袁渙は梁国の統治者として民に思いやりのある政治を常日頃から心がけます。
また彼の外見は優しそうな顔立ちですが、決断力に富んでおり、
政策面で何かを行うときは即座に決断し、政策を実行していきます。
その後袁渙は病にかかり、梁国の相を退くことになると、
民衆が大いに困惑し、彼にやめないで欲しいと家に訴えに来るほど民衆に慕われておりました。
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曹操が魏王になり魏国を建国
袁渙は曹操が魏王になり魏国を建国すると、
再び仕え曹操から郎中令・行御史大夫事に任命されます。
袁渙は曹操に「中華の民の耳を一新するには教化をするべし」と曹操に進言します。
曹操は彼の進言を採用し、民の耳目を教化によって一新しようと彼と共に政策を計画しておりました。
袁渙はそんな折、突然死去してしまいます。
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袁渙が亡くなった曹操は涙を流して悲しむ
曹操は袁渙が亡くなった事を聞き、涙を流して悲しみました。
そして彼は「政府が管理する蔵から郎中令の家に穀物を千石与えよ。
そしてもう千石を宮中から垣下(がいか=袁渙の字)の家に与えよ」と布告を出します。
群臣たちはなぜ千石ずつ別々に与えるのか疑問に持ち、曹操に質問します。
曹操は「政府が管理する蔵から穀物を与えるのは魏国の方で定められているからである。
残りの千石は私の友達が亡くなった事への餞別だからだ」と質問に答え、群臣を納得させます。
曹操は呼び方にも気を付け、公的な立場の者へ下賜するときは官位名で呼び、
宮中の蔵から穀物を与えるときは字で呼ぶ細やかな配慮を忘れませんでした。
三国志ライター黒田廉の独り言
曹丕(そうひ)は皇帝になると袁渙の従兄弟に「袁渙の勇怯はどうだった」と訪ねます。
すると袁渙の従兄弟は
「外見は穏やかそうに見えても危難に身を処した時は
古の勇者孟賁(もうほん)や夏育(かいく)も及ばないでしょう」
と答えます。
曹丕はこの答えに満足したそうです。
ついでに袁渙の息子は魏と晋の交代期にありながら他人におもねらず、保身をしない硬骨漢です。
今回のお話はこれでおしまいにゃ。
次回もまたはじめての三国志でお会いしましょう。
それじゃまたにゃ♪
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