司馬懿が病により七十三年の生涯を閉じた翌年、呉の大黒柱孫権も二宮の変を引き起こした後始末も出来ない内に重病に罹り崩御しました。
孫権は末子の孫亮を2代皇帝としますが彼は9歳の子供であり、とても政務を執る事が出来ません。そこで孫権は孫亮の後見人として重臣諸葛瑾の子である諸葛恪を太傅とします。
有能ではあった諸葛恪ですが、激しい上昇志向と自惚れが同居する人物であり、一時は魏に対し勝利を得るものの、やがて慢心から没落の運命を辿るのです。
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西暦252年孫権崩御
太元元年(251年)8月1日、呉ではにわかに大風がふいて長江も海も波高く、平地に溢れた水の高さは8尺(240㎝)にも到達し、呉の歴代君主の陵に植えられていた松や柏の木はことごとく大風にへしおられ帝都建業、南門の外に逆さに突き刺さりました。
長年の大酒飲みがたたり体調を崩していた孫権は、南門の外に逆さに突き刺さる木を見て、衝撃を受けて寝込み、翌年の4月になると病は回復不能な状態に陥ります。
いやー、以前は孫権の酒癖を露骨に嫌がる部下の表情さえ無視して毎晩宴会をしていた、アル中ヒゲダルマが、たかだか大風で吹き飛ばされた木が逆さに突き刺さった位で、寝込む程のショックを受けるとは、人間変われば変わるものですね。
さて、死期を悟った孫権は、太傅の諸葛恪と大司馬の呂岱を枕元に呼び寄せ、幼い孫亮を頼むと言い残すと在位24年、71歳で帰らぬ人となりました。
曹操、劉備、孫権、赤壁の戦いを皮切りに続いた三大君主の戦いは、孫権の死によって終わりを告げたのです。
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諸葛恪太傅へ、魏では主戦論が高まる
大命を受けた諸葛恪は孫亮を帝位に就けて覇業を継ぐ事を内外に示すと、年号を建興に改元して大赦し、孫権の諡を大皇帝として蒋山の陵に葬りました。孫権の死を察知した魏では、この機会に魏を滅ぼすべしという意見が盛んになります。
尚書の傅嘏は、「呉には長江という天然の要害があり、先帝も意のままには出来ませんでした。ここは双方が守りを固めて平和を維持するのが上策」と進言しますが、
司馬師は「天道も三十年も経過すれば一変する。いつまでも鼎の足のごとく睨み合っている場合ではあるまい。ワシは呉を討伐すべきだと思う」と主戦論を主張します。
弟の司馬昭も「孫亮は幼帝であり、まともに政務は執れない。今こそ呉を滅ぼす好機!」と兄に同調し、ここに呉討伐が決定しました。
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東興の戦いが開戦
司馬師は、指揮下の将軍に呉討伐を命じます。
征南将軍王昶は、10万の大軍を率いて南郡を攻め、鎮南都督毌丘倹は、10万の兵力を率いて武昌に向かって進軍、征東将軍胡遵は10万の兵力で東興を攻め、司馬昭は、この三軍を統轄し総大将になります。
同年の12月、司馬昭の兵は魏と呉の国境に到達し陣を構え、司馬昭は、王昶、毌丘倹、胡遵を帷幄の中に招き入れて協議しました。
「呉の最大の要衝は東興郡である。賊は大きな堤防を築きその左右には2つの城を築いて、巣湖の後よりの攻撃に備えておる。諸君、くれくれも油断せぬようにな」
こうして、王昶と毌丘倹にはそれぞれ、1万の兵力を与えて東興の左右の城に備えさせ「今は進撃してはならぬ、東興郡を陥落させてより、進軍するがよい」と命令し胡遵には、残りの28万の軍勢を率いさせ、
「まずは浮橋を架橋して東興の堤防を乗っ取れ、もし、左と右の両方の城を落としたら一番の大手柄とする」と命じました。胡遵は司馬昭の命令を受けて、浮橋の作成に取り掛かります。
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丁奉の出撃
孫権の死を好機として30万の大軍で南下する魏に対し、呉では太傅の諸葛恪を中心に軍議を開きます。この時、冠軍将軍丁奉が「東興は我が国の要であり、ここが落ちれば南郡も武昌も危のうござるぞ」と言い
諸葛恪は「全く将軍の言う通りである。それでは丁奉将軍、そなたに3000の兵力を授ける故、先行して長江の水路を進まれよ。その後で、呂拠、唐咨、留賛におのおの1万の兵力を預け、3手に分かれて後詰をさせよう。連珠砲を合図に一斉に進め、私は大軍を持ってその後から出る」と答えました。
丁奉は、この命令を受けると3000の水軍を率い、30の船に分乗して長江を遡上して東興に進軍しました。
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