三国志の大勝負、赤壁の戦いで劉備軍の諸葛亮と共に曹操軍を破った人物です。
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周瑜の基本情報
周瑜は、後漢で名を挙げた名家の生まれで、父や祖父もかなりの要職に就いていました。
呉の初代皇帝孫権の兄である孫策とは、幼いころから親密な友好関係を築いていて、周瑜と孫策は「断金」と評されるほど篤い関係にありました。また、周瑜の妻である小喬は、孫策の妻である大喬と姉妹であったため、周瑜と孫策は義理の兄弟でもありました。
孫策の死後は、孫権に仕えて呉のために活躍をしました。周瑜は三国志で一番イケメンと言われていて、『美周郎』とも呼ばれています。
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赤壁の戦いへの大論争
赤壁の戦いは、三国志を代表する戦いのひとつで、中国に流れる長江という川の赤壁という場所で、北から中国統一を目指す曹操軍とそれを阻止する孫権・劉備連合軍により繰り広げられた戦いです。
曹操軍20万に対し、孫権・劉備軍は5万。圧倒的な戦力差で、孫権・劉備軍は不利な状況でした。そのため、孫権軍は降伏か抗戦かで意見が分かれ、大論争を巻き起こしていました。この時、周瑜は抗戦派として、降伏派の説得に臨んだのです。
「曹操軍の水軍は戦いに慣れておらず、土地や風土の影響で疫病になる。
さらに、曹操軍の主力は最近他国の兵力を編成したばかりで曹操に従っているわけではない。」つまり、度重なる戦いと移動により疲弊している曹操軍になら勝機があると説いたのです。これにより降伏派を説得し、劉備軍と共に孫権軍も赤壁の戦いに臨むのでした。
赤壁の戦い
周瑜は、孫権軍としてこの戦いに参加し、劉備軍の諸葛亮と共に曹操軍と対峙しました。長江の赤壁は川幅が非常に広く、水軍が主力となって戦う必要があります。そのため、両軍とも船を準備し戦いの準備を進めていました。
その準備の中で、周瑜は諸葛亮の才能を警戒し、排除しようとします。ここで周瑜は諸葛亮に「10万本の矢」を用意するように言ったのです。
これに失敗すれば諸葛亮を処刑できるはず、だったのですが諸葛亮は見事用意してしまったのです。周瑜と諸葛亮の因縁は、この頃からあったのです。
その後、周瑜は諸葛亮と共に曹操軍を火計にかけ、曹操軍を見事に壊滅させます。
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諸葛亮との知恵比べ
赤壁の戦い後、周瑜は荊州に目を向けます。荊州は、土地は肥沃で、優秀な人材も多く、交通の要所であり、ここを制すれば戦いをかなり有利に進めることができます。
この頃の荊州は、すでに曹操により占領されていましたが、諸葛亮も荊州に注目していたため、三陣営による荊州争奪戦が繰り広げられます。赤壁の戦いに勝利した孫権軍は、勢いに乗って荊州の一部である南郡を攻撃します。
周瑜も南郡攻略に参加していましたが、正面決戦の際に毒矢が刺さり重傷を負います。南郡を攻略した呉に対し、劉備が孫権への会談を申し入れます。周瑜はこの機を逃さず、劉備を篭絡する作戦を提案します。
しかし、諸葛亮から知恵を授かった趙雲により、劉備が逃がされ失敗に終わります。
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周瑜の最期
その後、周瑜は蜀を攻略する口実で、荊州の劉備を殺すために準備を進めますが、諸葛亮の挑発めいた手紙により、「天はこの世に周瑜を生みながら、なぜ諸葛亮をも生んだのだ!」と叫び、憤死しました。
この時の周瑜は、36歳でした。
最後の最後まで、諸葛亮には敵わなかったのです。
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天下二分の計
三国志といえば、諸葛亮の「天下三分の計」によって魏、呉、蜀に分かれて物語が進みます。周瑜も魏に対抗するために、魏と呉による「天下二分の計」を進めます。
しかし、周瑜はこの計画を進める過程で、命を落としてしまうので叶えることはできませんでした。
曹操と周瑜
赤壁の戦いは、中国統一を目指す曹操軍とそれを阻止する劉備軍と孫権軍による戦いでした。しかし、それ以外にも、曹操は孫策の妻である大喬と、周瑜の妻である小喬を自分のものにしたかったのです。
曹操は「大喬と小喬を奪い取った暁には、銅雀台に住まわせたい」とまで言ったそうです。これには、周瑜も大激怒、あっという間に抗戦派になったのです。実は、これも諸葛亮の策略だったとも言われています。
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三国志ライター黒太子の独り言
三国志での周瑜は、諸葛亮の影に隠れてしまっていて、華やかな活躍はあまり見ることができません。
しかし、周瑜はいち早く諸葛亮の危険性に気づき、排除しようとした人物でした。
その洞察力や計略においても、諸葛亮に及びはしなかったですが、かなりの能力の持ち主だと伺えます。もし、諸葛亮がいなければ周瑜によって「天下二分の計」が出来上がり、三国志ならず二国志になっていたのかもしれません。
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