魏の武将「鄧艾」と言えば、特別なルートで蜀の都に攻め入り、滅亡させたことで知られています。その鄧艾は蜀征伐だけでなく、様々な戦いで勝利し、とても強い武将でした。
今回の記事ではそんな鄧艾の強い戦績を探ってみたいと思います。
鄧艾が将軍になるまで
鄧艾は父を早くに亡くし、母子で貧しい暮らしをしていました。後に故郷が曹操に侵略された際、屯田民として移住させられます。
12から13歳のとき、役所に召し出されそこで働くことになるのですが、「吃音」というハンデを持っていた鄧艾は疎まれていたといいます。
鄧艾にはある趣味なようなものがあり、それは高い山や沼などを見つけると測量し、戦の際に適切な軍営の位置などを想像し、地図に記すことでした。このことが後の戦に役に立つことになるのです。
後に都に使者として赴いた再、司馬懿に才能を認めれられ、中央で働くことになります。そこでは農政で力を発揮し、運河の開通や屯田などを建策し、認められました。
姜維を撃退する鄧艾
鄧艾は南安太守に任命され、蜀との戦いの最前線に立つことになりました。249年に蜀の「姜維」が侵攻してきました。
鄧艾は郭淮と共にこれを撃退し、姜維は撤退。郭淮は姜維が去ったのを見計らい、姜維に協力していた異民族の征伐に向かいます。
鄧艾は姜維が引き返してくるのを見越し、また姜維が攻撃するだろう城を見抜き、そこに立てこもっていたのです。作戦を見抜かれた姜維は慌てて撤退したのです。この功績で鄧艾は将軍に任命されました。
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謀反人を征伐する鄧艾
255年、毌丘倹と文欽が反乱を起こしました。
当時の魏の権力者「司馬師」は反乱討伐の命令を出すと、鄧艾は通常の倍の速さで進軍し、他の者に先駆けて拠点を確保します。
鄧艾はわざと隙をみせ、文欽を誘い出すと大軍でこれも打ち破り、文欽は呉に亡命します。これに応じて呉は大軍で魏への侵略を企てますが、それも撃退することに成功しています。
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北伐の防衛で強さを見せつける鄧艾
255年、姜維が再び北伐で侵攻してきました。迎撃にあたったのは王経という武将でしたが、散々に破られ、城に籠るも姜維に包囲されてしまいます。
そこに鄧艾が救援に駆けつけ、姜維を撃退。周囲の者は姜維に再び備える必要はないと主張していましたが、鄧艾は反論しました。
姜維の勢いや、支配地域の民の疲弊、魏軍の兵士の訓練不足などの理由を挙げ、警戒を怠りませんでした。
翌年、鄧艾の予想通り姜維が再び魏に侵攻。しかし鄧艾は姜維の動きを読み、散々に撃退したのです。
その後もたびたび姜維は侵攻してきましたが、そのたびに鄧艾は打ち破り、その戦に強い様を見せつけたのです。
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蜀を滅ぼす鄧艾
263年、魏の最高権力者「司馬昭」は蜀の征伐を決意します。その任には鄧艾と、名門出身の鐘会が任じられ、それぞれ蜀に攻め込みます。
蜀は姜維が蜀への玄関口「剣閣」の防衛にあたりました。ここは天然の要害であり、とても攻めるのに難しい場所でした。
鐘会と鄧艾は何度か剣閣を攻めますが、容易に落とすことが出来ません。
そこで鄧艾は剣閣を迂回し、別ルートから蜀の首都成都に迫ることにしました。そのルートは前人未到の地であり、鄧艾は山に穴をあけ道を作り、時には崖から転がり落ちながら必死に進軍しました。そしてついに蜀の城がある江油に到達。
まさか敵が来るとは思わない城の守将は驚きあっさりと降伏してしまいます。突然の鄧艾の登場に驚いた蜀は、諸葛亮の息子「諸葛瞻」を派遣します。
鄧艾は息子の鄧忠などを出し、攻略に当たりますが、初めは敗北してしまいます。鄧忠などは「敵は強大で破ることが困難」と弱音を吐きました。鄧艾はこれに激怒し、剣を持って彼らを斬る勢いでした。
しかし、鄧忠らにもう一度チャンスを与え、死に物狂いの彼らは諸葛瞻を斬ることに成功します。
この時蜀軍の主力は剣閣にくぎ付けになっていたため、もはや守れないと感じた蜀の君主劉禅は降伏。蜀は滅亡します。
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