この記事では、三国志でのいぶし銀の脇役こと張遼について解説していきたいと思います。
張遼はもちろん、劉備や曹操、諸葛亮のような主役級の人物ではありませんが、知る人ぞ知る名将というイメージがあるのではないでしょうか。
そこでこの記事では、張遼の活躍がどのように正史三国志で描かれているか、という点に着目して解説していきます。
この記事の目次
張遼の生い立ち
張遼は并州雁門郡の出身といわれています。并州雁門郡は、万里の長城を隔てて後漢王朝と遊牧民がにらみあう前線地帯でした。こうした地域からは、住民と長城以北の遊牧民との交流が進み、優れた馬術を身につけた勇猛な武将が数多く輩出されています。
例えば、三国志最強の猛将である呂布は并州五原郡の出身であり、若き日の張遼と呂布は似たような境遇でその経歴をスタートさせていると言えるでしょう。
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丁原・董卓の配下時代
張遼は若いころからその卓越した武勇で名が通った存在であり、并州刺史の丁原に見出され、丁原配下の武将となります。
後漢の朝廷で、189年(中平6年)に外戚の何進と宦官たちが争った際には、大将軍であった何進を援護するため、并州刺史の丁原が首都洛陽に駆け付けました。
その際、張遼は同じく并州出身の呂布とともに、丁原に従っていたと言われています。その後、何進が宦官に暗殺され、宦官も袁紹らによって排除されると、皇帝を擁した董卓が後漢王朝の実権を握ってしまいます。
丁原は董卓の専横に異を唱えますが、配下の呂布が董卓に与して裏切り、丁原を殺害して董卓の配下になってしまいます。この時、張遼は呂布と同様に董卓に従ったと言われています。
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呂布配下の猛将
192年(初平3年)に董卓が呂布に殺害されると、董卓の配下たちは呂布の陣営と李傕・郭汜らの陣営に分かれて争い始めます。張遼は呂布の陣営に参加しますが、呂布は李傕・郭汜との戦いに敗れ、各地を流浪することになります。
この際、張遼は陳宮や高順らとともに呂布陣営を支える主要な武将としてその名が知られるようになっていきます。
都を追われた呂布は兗州・徐州を転戦し、曹操や劉備といった群雄と戦っていますが、張遼の働きはその中でも目立っていました。
呂布が劉備に代わって徐州を支配すると、劉備を救援すべく曹操が派遣した夏侯惇を張遼は破り、劉備の立て籠もる小沛を攻め落とし、劉備の妻子を捕えています。このように、張遼の武勇は呂布本人を除けば、呂布軍随一のものであり、曹操や劉備を恐れさせるものだったのです。
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曹操に仕官する張遼
小沛を追われた劉備は曹操の下に身を寄せ、曹操と劉備は協力して徐州を攻めて呂布を追い詰めます。
曹操の計略の前に呂布は追い詰められ、ついには呂布とその配下の将軍たちは曹操に捕らえられてしまいます。
曹操は呂布・陳宮・高順らを処刑したものの、張遼は処刑されることなく曹操に取り立てられ、中郎将・関内侯(「関内侯」は後漢王朝の官位二十階のうち、上から2番目にあたる。)に任ぜられるなど、むしろ出世を果たしています。
この異例の厚遇を見る限り、士を好む性格らしく、曹操は自らの軍勢を幾度もはねのけた張遼の才能に惚れ込んでいたのでしょう。その後、張遼は曹操配下の武将として、これまで以上に功績を積み重ねていくことになります。
200年(建安5年)に曹操と袁紹との間に起こった官渡の戦いにおいて張遼は、曹操に一時降伏した関羽とともに先鋒を務め、袁紹軍第一の猛将である顔良を破っています。
張遼と関羽は確かに卓越した武勇を誇るものの、彼らは、かつて曹操と敵対しながら曹操に降伏した武将たちです。こうした武将たちをきちんと信頼し、先鋒を任せる曹操の器量の大きさと、曹操の期待にいかんなく応える張遼と関羽の忠義が見て取れますね。
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