小説「三国志演義」では実質的主人公とされ、史実でも貧しい出身から王朝まで建てた劉備。しかし、結局は天下統一をすることはかないませんでした。それはどのような事が原因だったのでしょうか?
今回の記事では筆者が考えた、その理由を3つを曹操の「魏」と比較しつつ、上げてみようと思います。
関連記事:3677名に聞きました!もう少しで曹操に誅殺されたのでは?と感じる人物、大調査!
関連記事:曹操が諸葛亮や諸葛瑾の祖先を褒めていたってホントなの?その理由は?
この記事の目次
1.出自の違いによるスタートダッシュ遅さ
劉備は一応漢の王族の子孫という事にはなっていましたが、実際は父を早くに亡くし、貧しい生活をしていました。
なかなか出世の機会に恵まれませんでしたが、「黄巾の乱」のおりに義勇軍を結成し、戦功をあげたことにより、ようやく役人として登用されます。
しかし他の役人の態度が気に入らず、折角の官職を捨ててしまい、以後は様々な組織に所属しながら戦い続けます。
一方ライバルの曹操は大金持ちの家に生まれ、20歳で役人に推挙されました。黄巾の乱で活躍し、とんとん拍子に朝廷で出世していくことになります。
以後は一時停滞することもあったものの、常に中央の一線で活躍し、朝廷の最高位「丞相」になったのは208年です。
このとき劉備は諸葛亮を迎えたばかりでまだ大きな領土は持っていませんでした。曹操という実力者に迫るには劉備の勢力拡大の遅さは厳しいものがあったのかもしれません。
関連記事:【三顧の礼】均ちゃんの野望ホントは劉備に仕官したかった諸葛均
関連記事:【三顧の礼】演義の劉備は誰でも口説くあわてんぼう!
2.益州の国力では敵わない
苦労して益州を手に入れ、「魏呉蜀」の三国を鼎立させた劉備ですが、どうしても国力に大きな差がありました。三国鼎立時点で魏が支配下に置いていた「州」は11州、呉は4州、蜀に至ってはわずか益州のみ1州にすぎませんでした。
しかも魏は当時の先進地である黄河流域の諸州を確保し、皇帝をも支配下に置いていました。一方益州は「豊かな土地」と言われていたものの、山間地の盆地で魏の「中原」の広大な平野には生産力でとてもかないませんでした。
諸葛亮はそんな中でも殖産興業、兵員確保を行い、北伐も行いました。それでも蜀が破たんしなかったのはすごいことですが、結局は魏を脅かすところまでは至りませんでした。
関連記事:なぜ蜀漢の北伐は兵站維持に失敗したのか?食料事情から原因を考察
関連記事:趙雲の最後の戦い!第1次北伐における箕谷の戦いに迫る
関連記事:もしも第一次北伐に関羽が生きていたらどうなった?諸葛亮と関羽の共同作戦を考えてみた
【北伐の真実に迫る】
3.劉備の「情」が邪魔をした〜例1、何度か雄飛の機会を逃す
劉備は「情」の人と言われ、その人柄が愛されていました。しかし、その情が天下統一をするには邪魔をしたのかも知れません。
あるとき、劉備は劉表の元に身を寄せていました。しかし劉表は亡くなり、後を継いだ劉琮はあっけなく曹操に降伏してしまいます。
この時諸葛亮は「劉琮を討って、そのままその領土(荊州)を手に入れてしまいなさい。」とアドバイスしましたが、劉備は劉表に対する恩からかそれを拒否し、逃亡してしまいます。
その時多数の領民も付いてきたのですが、その民を捨てて素早く行軍すれば土地を手にすることもできたはずですが、劉備は民を捨てることを拒み、進軍は遅れ、曹操軍と戦う事になります。
また、益州を手に入れる計画中、益州の主「劉璋」と宴会をする機会がありました。
そのとき配下の「龐統」は「この機会に劉璋を捕え、そのまま領土(益州)を手に入れてしまいなさい。」とアドバイスしますが劉備は「まだ信義を示していない」と拒否。
益州を早く手に入れるチャンスを失い、のちの戦いで有能な軍師の龐統も死なせてしまいます。
関連記事:実際の龐統の容姿ってどんな感じ?イメージはどこから来た?
関連記事:龐統と法正は協力し劉備の蜀獲りに参加していた?その役割分担に迫る!
劉備の「情」が邪魔をした〜例2「夷陵の戦い」
劉備の情が国を傾かせてしまったのが「夷陵の戦い」です。
荊州の守りを任せていた義兄弟の「関羽」が呉に討たれてしまいます。
劉備は激しく嘆き悲しみ、呉への復讐戦を計画します。学識で有名な「秦宓」はこの戦に対して「まだその時期ではありません、必ず失敗します。」と劉備に言いましたが、劉備は怒り、秦宓は投獄されてしまいます。
呉でも諸葛亮の兄「諸葛僅」が「劉備様のお気持ちはわかります。しかし、今は蜀と呉が手を取りあい、魏と対抗するべきではありませんか。」と書簡を送りますが、劉備の決意は固く、ついに出兵します。
緒戦こそ勝利しますが、呉の名将「陸遜」の前に蜀軍は大敗。「馬良」が戦死するなど、多数の有能な人材を失ってしまい、劉備も帰国後に亡くなってしまいます。この戦いが無ければ、もしかしたらまだ天下統一のチャンスはあったかもしれません。
関連記事:夷陵の戦いで敗北した劉備は呉と再戦するつもりだった?敗戦後の劉備を考察
関連記事:夷陵の戦いにおける劉備の大敗は避けようがなかったの?臥竜鳳雛が揃っていたら?
三国志ライターみうらの独り言
蜀は圧倒的差がありながら魏に立ち向かいました。それが今の我々の心を打つのかもしれません。また、劉備自身の決断は蜀の発展を遅らせた面もあるかもしれませんが、劉備の人間性はとても憎めませんね。
関連記事:劉備は曹操と天下を争う気はなかった?陳寿の人物評がなかなか面白い
関連記事:4595名に聞きました!劉備が生き残れた最大の理由は?結果発表!