孫策はのちに呉の皇帝となる孫権の兄で、周瑜は「赤壁の戦い」などで活躍した呉の名将です。その孫策と周瑜はとても固い絆で結ばれ、その二人の関係は「断金の交」とも言われました。
今回の記事ではそんな孫策と周瑜の関係性、そしてそれを示す「断金の交」の意味についても探っていきます。
この記事の目次
孫策、周瑜二人の出会い
周瑜は揚州廬江郡(現在の安徽省)の名門に生まれました。一族は高い要職に就くことも多く、周瑜も成人するとその人物や風采が評判になっていました。
一方孫策は董卓に対する抵抗で活躍していた「孫堅」の息子として生まれました。
父の孫堅が各地を転戦する中で孫策は離れて暮らしていましたが、徐々に名声を高めていきました。そんな孫策の評判を周瑜は聞き、彼らは面会することになったのです。その時孫策、周瑜共に若干14歳でした。
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意気投合、「断金の交わり」を結ぶ
その面会で二人は意気投合し、「断金の交」を結ぶことになるのです。
「断金の交わり」とは「金属を断つほど強く固い交際」という意味で、周瑜は己が住む地域に孫策を招き、大きな屋敷を孫策に譲り、まるで同じ家族のような生活をしていたそうです。
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孫策、自立し周瑜を招き入れる
孫堅が劉表との戦いで戦死すると、孫家は孫策が率いることになり、
当時大きな勢力を誇っていた「袁術」の傘下に入ります。孫策は袁術の下で戦功を挙げますが、認められず、袁術を見限って江東で自立を果たします。
同じころ、袁術は評判が高かった周瑜を配下に迎えようとしますが、周瑜は袁術を信頼しておらず、独立した孫策の下に手勢を率いて駆けつけます。孫策は周瑜を大いに歓迎し、立派な屋敷を用意するなど最高の待遇で彼を迎えました。
一部の部下はそれに不満の声を挙げますが孫策は「公瑾(周瑜の字)は昔馴染みで兄弟同然だ。」と表明し、不満を退けています。
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孫策、周瑜とともに呉の地を席巻す
孫策は周瑜と協力し、呉の地方を次々に攻略していくことになります。先ずは揚州地方に勢力を誇っていた「劉繇」と戦い、負傷はしますがこれを破り、地方制圧の基盤を築くことに成功し、呉郡太守であった「許貢」、会稽太守の「王朗」も破り、更に勢力を拡大することに成功します。
この時、劉繇の配下であった「太史慈」は独立勢力として孫策と対峙しますが、これも破り、勇将太史慈を配下にすることにもなったのです。そして孫策は「孫郎(郎は良い男の意味)」、周瑜は「周郎」として世間に名が知れ渡るようになっていきます。
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喬姉妹を娶り、義兄弟となる
孫策はその後、荊州地方の攻略に乗り出し、失意のうちに死んだ袁術軍を吸収した「劉勲」と戦う事になります。
孫策は謀略を駆使して劉勲の本拠地を落とし、この時に美人で評判の「喬姉妹」を手に入れることになります。この時、姉の「大喬」は孫策が娶り、妹の「小喬」は周瑜が娶り、これによって二人はさらに深い関係になっていきます。
ちなみに姉を孫策が娶ったのは孫策が周瑜より1か月早く生まれていたためだったといいます。
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