蜀漢を滅亡させたのは誰かという話は度々話題になります。その時に挙げられるのが、姜維や黄皓といった蜀漢末期の人物たちです。
確かに滅亡時に国を動かしていた人たちは、直接的な原因と言えます。しかし、物事の結果には遠因があるので、そこを考えると姜維や黄皓以前にきっかけを作った人物がいるはず。
数ある蜀漢の重役を担った人物の中で、筆者が一番の戦犯と考えているのは費禕です。今回はその理由を解説していきます。
この記事の目次
荊州を失った関羽は戦犯にならないのか?
まず本題の費禕に入る前に、他の戦犯について考えていきましょう。遠因という点から考えると、蜀漢の屋台骨が大きくグラついたきっかけは関羽です。
関羽は蜀漢が魏を打倒する上で不可欠である荊州を失いました。また、自身も命を落としたことで、劉備が夷陵で大敗するきっかけを作っています。
確かにこれらは関羽の「罪」ではありますが、蜀漢という国家の滅亡には直接結びつきません。これは、劉備が死に、荊州を失ってからも蜀漢政権が40年以上存続したことからも明らかです。
もともと劉焉、劉璋らは長らく益州に根を張っていましたが、それは大きな戦乱がなかったからであり、あえて益州を侵そうと考える人物もいませんでした。
これは、益州が攻めるのが難しい割に、得たところで大きな利益は見込めないからでしょう。劉備が益州を得たのは、拠点が借り物の荊州南部しかなく、加えて張魯を防ぐという名目で簡単に益州内部へ入れたからです。
そういう特殊な状況がなければ特に攻め込む理由がない場所だったのです。結果的に蜀漢は攻め滅ぼされますが、これは政権内部の分裂と国力の低下、魏軍の捨て身の攻撃という条件が重なったことが大きいです。
つまり、関羽の敗戦は蜀漢の滅亡とは関係していないので、関羽は戦犯ではありません。
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北伐を開始した諸葛亮は戦犯か?
蜀漢の滅亡には国力低下という要因があったと述べましたが、そうすると北伐を開始した諸葛亮も戦犯でしょうか。
筆者はそこまで諸葛亮に非があると考えていません。唯一、罪があるとすれば自身が軍事と政治のトップを1人で担う独裁体制を作りあげてしまった事です。
結果的に自身は体を壊していますし、後継者の蒋琬、その後を継いだ費禕も同じ体制を引き継ぎました。費禕の時代には、劉禅が直接政治を取り仕切る新政を行っていますが、続く姜維は立場上は軍事と政治のトップでありながら軍事にしか関わっていません。
費禕が死んだ直後は、政治を尚書令の陳祗が担っていました。陳祗は姜維と対極の立場にいながらも北伐を支持していたので、この時期は比較的安定したと言われています。
しかし、陳祗の死後は北伐反対派の董厥、そして樊建が後を継ぎました。さらに副官に相当する尚書僕射の諸葛瞻も姜維を目の敵としている黄皓と結託。それによって、姜維は大将軍でありながら、その権力を急速に失っていきます。
諸葛亮が早い段階で軍事と政治を切り分けていれば、北伐事業自体が停止し、姜維の代まで継続されることはなかった可能性が高いです。そうすれば軍事行動による国力の低下は防げたでしょう。
魏軍は蜀漢討伐戦の際に、鄧艾の奇襲が成功しなければ、兵糧切れで撤退していた可能性が高いので、蜀漢軍が分裂せず、国力が残っていれば滅亡はもっと後だったのかもしれません。
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黄皓と姜維が戦犯というのは冤罪か?
蜀漢の2大戦犯とも言える黄皓と姜維ですが、彼らに非はないのかといえば、もちろん大アリです。
黄皓は姜維に対する私怨から、魏軍が攻め込んできたという姜維の報告を握りつぶし、漢中を早期に失う結果をもたらしました。加えて、人事にも影響力があったことから都合の悪い人物を排除して、有能な人物を流出させています。
姜維もまた度重なる北伐で国家を疲弊させ、政治を顧みなかったことは大きな問題です。しかし、二人にはそれぞれ役割があったと考えます。
黄皓の役割とは劉禅の機嫌を取ること。宦官の横行は蜀漢に限った話ではなく、どの時代にもあり、その共通点として人に取り入るのがうまいという特徴が挙げられます。
皇帝は孤独な立場ですし、後年の劉禅は政治にも関わっていたようなので、ガス抜きは必要だったはずです。黄皓は劉禅の判断を誤らせた張本人かもしれませんが、その半目で劉禅が独裁的にならないよう感情を抑制する役割を担っていたと言えます。
また、黄皓は董允が尚書令だった時は、董允に恐れをなして目立った動きをしませんでした。続く陳祗は宦官とも上手く付き合いながら姜維と連携を取ったので、この時期に大きな問題は起きていません。
黄皓が暴走するのは陳祗の死後であることを考えると、黄皓は管理する人間さえいれば、劉禅の機嫌をうまく取るだけの存在として機能した可能性があります。
姜維は北伐での失敗が目立ちますが、その経歴や家柄から羌族とのつながりが深く、さらに魏軍の動きから戦略を把握し、蜀漢軍の防衛網を再構築しています。
魏は鄧艾が隴右の開拓を行ったことで、長安から漢中を狙うルート以外に、祁山方面から陰平方面へ直接南下するルートを形成しました。
蜀漢軍は魏延が督漢中だった時代に、漢中方面に強固な防衛網を築きましたが、姜維はそれが形骸化したことを見抜いています。ただ、姜維と黄皓が互いに反目し合って、内部崩壊を起こしていたために、せっかく築いた姜維の防衛網も機能せずに終わりました。
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費禕が戦犯である理由とその本性
黄皓と姜維は十分に戦犯として値しますが、それ以上の人物が費禕です。費禕は活躍が目立つ人物ですが、その裏で狡猾に人を追い落としながら出世をしてきた経歴があります。
例えば、諸葛亮没後の人事で蔣琬が後任に選ばれると楊儀は中軍師、費禕は後軍師に任命されました。楊儀伝には特に仕事がなくヒマであった旨が記載されています。
これは楊儀が後任の座を蔣琬に奪われ、腐ってしまった事もありますが、そもそも軍師という役職は戦時にこそ役割が与えられます。しかし、諸葛亮の没後は北伐が中断状態であり、まともな仕事などありませんでした。
つまり、楊儀と費禕は同時に閑職に追いやられていたのです。恐らく、費禕自身も生前の諸葛亮に目をかけられていたので、要職に就けると踏んでいたはず。にも関わらず、国の中枢から大きく切り離された状況でした。そこで、出世の道具として楊儀を利用します。
費禕はもともと仲違いをしていた魏延と楊儀の仲裁に入っていたので、楊儀は気を許していましたし、同じ軍師という役職を与えられた不満もあったはずです。
そして費禕が楊儀に接触すると、予想通り楊儀はその不満を爆発させます。その時に、諸葛亮が陣没した際に魏に投降していればという不穏当な発言をしてしまい、費禕はそれを劉禅に密告。楊儀は罪に問われ、費禕はその功績で尚書令となりました。
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費禕は蔣琬をも踏み台にした?
費禕は楊儀だけでなく、蔣琬を追い落とした疑惑もあります。蔣琬は病気によって費禕に後事を託したと言われていますが、ここにも陰謀の影がチラついています。
蔣琬は238年に開府する権限を与えられ、本格的に北伐再開を検討。その際に、諸葛亮が食料運搬で難儀したことから、水運が使える上庸方面への侵攻を検討しました。
しかし、撤退の際には川の流れを遡ることになり、リスクが大きいため朝廷内では反対の声が上がります。華陽国志・劉後主志によると241年10月に、費禕は漢中の蔣琬を訪ねて協議を行っていますが、これは恐らく費禕が蔣琬を失脚させるための訪問だったと考えられます。
費禕は北伐反対派の中心であり、蔣琬の考えをリスキーとして、反対意見を述べるのは難しくなかったでしょう。そして翌年の正月に、蔣琬は側近だった姜維を涪へ遷され孤立。さらに翌年の243年には費禕に役職を譲り、蔣琬自身も涪へ遷りました。
その後、蔣琬は姜維を涼州刺史とするよう上疏し、その中で自身が涪にあって変事があればどこへでもすぐに応じることができると言っています。
それにも関わらず244年に曹爽が漢中へ侵攻した際には、王平と費禕が防衛にあたっていて、姜維と蔣琬は参戦していません。費禕は蔣琬を失脚させて、その地位を奪ったと考えるのが自然でしょう。
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