魏呉蜀(ぎ・ご・しょく)という三国時代とは言え、その中で
中国の3分の2を支配したのは、曹操(そうそう)が興した魏でした。
人口は、呉蜀を合わせた人口の2倍以上の800万人、
生産力は、屯田制と、元々、開けた中国の先進地帯を領有していた関係で
蜀の軽く10倍はあったのではないかと思います。
そこで、三国志の初心者の方は、
「どうして魏は三国を統一できないで終わるのか?」
と疑問で一杯になるそうなので、はじめての三国志では、その理由を
簡単にではありますが、解説致します。
この記事の目次
理由1 呉と蜀は潜在的な同盟関係だった
もし、呉と蜀が敵対関係で、歩調を合わせないなら、
きっと、曹操存命の間に、魏は天下を統一できたでしょう。
しかし、赤壁の戦いの以後、呉と蜀は、時々は敵対するような事も
ありましたが、基本的には連動して動きました。
例えば、諸葛亮孔明(しょかつ・りょう・こうめい)が
北伐を開始して、魏の領内に攻め込んだ場合には、
魏が迎撃軍を派遣して手薄になった南方を呉が攻めるという具合で、
魏は常に西と南の敵を相手にして的を一つに絞れなかったのです。
理由2 曹操が自分の世代での天下統一を諦めた
魏が天下を統一出来なかった理由のもう一つは、
曹操が、西暦208年の赤壁の敗戦以後、自分が生きている間の
天下の統一を諦め、内政固めを行い、魏の基盤を強くする方向に
シフトしたという要因もあります。
曹操は西暦155年生まれで、赤壁の敗戦の頃には、
53歳になっていました。
平均寿命が50歳以下の時代に、53歳はかなりの高齢です。
そこで、曹操は、無理に天下を統一する事を断念して、
内政を固めて、後継者を選定し、次世代に天下統一の夢を託したのです。
日本の英雄だと「自分の代で何がなんでも天下統一!」と無理をしますが、
流石は、中国、天下統一もかなり悠長な感じです。
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理由3 司馬氏(しばし)の勢力が、魏の勢力を呑みこんだ・・
これは、呉でも蜀でも起きなかった事ですが、
魏においては、西暦249年、高平陵の変で、実権を握っていた
魏の皇族、曹爽(そうそう)が司馬懿(しばい)のクーデターによって
追い落とされ、処刑されるという大事件が起きます。
これ以後、魏では、曹一族の力が衰え、司馬懿、そして、
権力の纂奪(さんだつ:奪う事)が進行します。
西暦263年、蜀は魏将、鐘会(しょうかい)、そして鄧艾(とうがい)の攻撃で、
その命令を出したのは、魏の皇帝ではなく、
晋王(しんおう)になっていた司馬昭でした。
事実上、蜀を滅ぼしたのは、魏を纂奪寸前の晋だった
とも言えるかも知れません。
この蜀の滅亡の僅か2年後、西暦265年、魏は滅び
司馬昭の息子である司馬炎(しばえん)が晋王朝を建国しています。
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理由4 曹丕の一族への冷遇のせい・・
司馬氏の纂奪に対して、魏では、重臣達による逆クーデターが
何度も起きています。
しかし、そのクーデターはことごとく失敗してしまいました。
その大きな理由として、こういう場合に頼りになるべき、
魏の皇族達の勢力が小さかったという事があります。
これは、弟、曹植(そうしょく)との皇位継承争いに勝利した曹丕(そうひ)が、
反対派の巻き返しを警戒して、小さな領地しか皇族に与えなかったからです。
確かにこれにより、同じ皇族による政権の纂奪は防止出来ましたが、
重臣、司馬氏のクーデターに対して、反旗を翻す皇族も出ないという
皮肉な結果も生んだのです。
魏を滅ぼした晋は、曹丕の失敗を教訓に、逆に皇族の援護を当てにして、
巨大な領地を与えますが、今度は皇位を巡り、皇族同士が抗争を開始して
八王の乱を招き晋は弱体化してしまうのです。
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三国志ライターkawausoの補足
このように圧倒的に強かった魏が、格下の蜀や呉を
攻略できなかったのは上に挙げた理由などがあります。
もっとも、それに加えて、呉には孫権(そんけん)を始め、
周瑜(しゅうゆ)、呂蒙(りょもう)、陸遜(りくそん)という、
名将が揃い、蜀には劉備(りゅうび)や諸葛亮孔明という
戦争慣れした曹操のライバル達が存在したという事も忘れてはいけません。
この三すくみの絶妙のバランスが、三国志を面白くしているのも
また、事実なのです。
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