ピチピチパンツで一見、全裸に見える「安心して下さい、履いています」の芸でブレイクの予感のとにかく明るい安村ですが、三国志には全く安心できない全裸常習犯がいました、それが禰衡(でいこう)です。
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並はずれた才能を持ちながら、奇妙な行動が多い禰衡(でいこう)
全く安心できない全裸男、禰衡は、西暦173年~198年の人物です。たった、26年の生涯ですが、兎に角彼には奇行が多く、実の所は、その奇行の為に歴史に名前が残っていると言っていいくらいです。
性格が悪い学者の孔融(こうゆう)に推薦され、曹操(そうそう)の元へ
禰衡は、青州平原郡の人ですが、黄巾の戦乱を逃れて荊州に移住します。同じく幼少期から荊州に逃れた孔明(こうめい)より年齢は8歳上ですので、直接の接点は無さそうですが、その奇行は広く知られており、友達も殆どいなかったので、孔明も悪評位は耳にはしたかも知れません。
そんな禰衡ですが、へりくつ大王で人気がない学者の孔融とは大の仲良し孔融は曹操に仕官していたので、ここぞとばかりに禰衡の有能さを吹きこみ曹操も孔融が毎回、禰衡の有能ぶりをアピールするのですっかり魅了され召抱えたいと考えるようになっていました。
禰衡も孔融の紹介を受けて、荊州から曹操が献帝(けんてい)を迎えて都になったばかりの許昌にやってきます。西暦196年、建安元年位の事です。
許昌にやってきた禰衡は、早速悪口を爆発
許昌に上った禰衡ですが、先を争って、曹操に仕官する人を尻目に、もらった紹介状が擦り切れても、曹操を訪ねようともしません。不思議に思った或る人が、「どうして、司馬朗(しば・ろう)や陳羣(ちんぐん)のような名士を尋ねないのですか?」と聴くと、禰衡は憮然とした顔をして、
「あなたは、豚殺しや酒売りのような身分の卑しい人間と私を付き合わせたいのか?」と文句を言いました。
曹操なんかカス!さらに曹操の部下をボロクソ言う禰衡
さらに、或る人が禰衡に、「では、あなたは今の世の中で誰が、ひとかどの人物だと思うか?」と聴いた所、禰衡は、このように言います。「年長では孔融(こうゆう)年少では揚修(ようしゅう)であろう」それを聞いた或る人がまた、不思議に思い、、
「では、あなたは、曹公(曹操)や荀彧(じゅんいく)、趙融(ちょうゆう)はどう思われる?私は彼等こそ、ひとかどの人物と思うが?」と人物談義を仕掛けてきました。すると禰衡の悪口モードが全開になります。
「曹操なんかカスだよ、大した事ないね、荀彧、ああ見た目だけはいいから、葬式で人を尋ねるにはいいだろう、趙融?あれは厨房で客を接待するのが適任だよ、デブで食いしん坊だから、料理の味は分かるだろ?」
三国志演義では、さらに曹操の部下をディスる
正史三国志の記述では以上ですが三国志演義では禰衡の悪口は、さらに曹操の配下にまで及んでいます。
「荀攸(じゅんゆう)は墓守が適任、程昱(ていいく)は体がデカイから門番!郭嘉(かくか)は文章の読み上げ!張遼(ちょうりょう)は太鼓叩き!許褚(きょちょ)は牛馬の番人!楽進(がくしん)は詔(みことのり)の読み上げ!李典(りてん)は書類の伝令!呂虔(りょけん)は刀鍛冶!満寵(まんちょう)は酒粕喰らいが適任!于禁(うきん)は左官屋!徐晃(じょこう)は肉屋!夏侯惇(かこうとん)は五体満足将軍、曹洪(そうこう)はケチで強欲だから銭取り太守、それ以外は、ただ服を着て飯を食っているだけの連中だ」
まさに言いたい放題であり、禰衡は、この一連の放言により許昌の人々に広く憎まれたと伝わっています。
しかし、曹操は禰衡を仕官させようとする
ところが、「カス」とディスられた曹操は、まだ孔融の吹きこんだ禰衡の才能を惜しんで未練があり禰衡に仕官するように命じます。
が、禰衡は「私は気が狂いましたので仕官は出来ません」と断ります。禰衡やりたい放題です、、司馬懿(しばい)が仕官を拒否した時には殺すと強迫した曹操も、今回は流石に無理強いはしませんでした。どうやら、禰衡の奇行を曹操はツンデレの部類と考えていたようで、「まあ、まだチャンスはあるから、徐々に・・」と思っていた模様・・やはり曹操、人材が絡むと言動がオカシイです(笑)
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安心できない禰衡、太鼓を叩いて全裸に!
曹操は、禰衡が太鼓の名手であるという噂を聞きつけて、是非、その腕前を拝見したいと手紙を送ります。禰衡は断るかと思いましたが、意外にも従順に曹操の屋敷にやってきます。そして、太鼓の超絶技法である漁陽參撾(ぎょよう・じんか)を披露してみせて人々を感動させます。しかし、その途中、側で演奏を聞いていた人が禰衡に太鼓の打ち間違いを指摘し、退室して着替えるようにと促します。
当時のしきたりでは、太鼓を打ち間違えると退室して別室で服を着替えるという決まりがあったのです。ところが禰衡は「さようですか・・しからばお待ちを」と言うなり退室もせず、その場で服を脱ぎスッポンポンになったのです。
ビキニパンツも何も無し、全くのスッポンポンです。禰衡、全く安心できません!!
当時は儒教の影響で人前で裸になるのは、大変なタブーでした。見たくもない男の裸を見せられて、周囲は怒りを露わにしますが、禰衡は全裸のまま、悠然と太鼓を叩きながら外に出て行ったそうです。そのまま、外という事はストリーキングという事でしょうか?現代だったら、わいせつ物陳列罪で逮捕です(笑)
曹操は、曹操で「禰衡に恥をかかせようと思ったら、逆にこっちが恥をかかされたわい」と笑っていたとか・・やはり、このちっさいオッサン、人材が絡むと反応が変(笑)
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曹操、再度、禰衡を招いて今度は大激怒
孔融は友達の禰衡をよほど仕官させたいらしく(正気か孔融?)さらに禰衡に手紙を書いて曹操に会うように促します。禰衡は、それを受けて曹操に面会したいと手紙を出しました。
それを聞いた曹操は大喜びです。「あのツンデレめ、ようやくその気になったか!」と上機嫌で門番に禰衡がやってきたら、お待たせせずに直ぐに客室に通すようにと気難しい禰衡に最大限の配慮を見せます。
ところが面会当日、禰衡は世にも汚らしい姿をして、杖を突き、門番の前までやってきました。そして曹操を罵倒する言葉を怒鳴りながら杖で地面をバシバシと叩き始めたのです。
「あのー、門の前でオカシイヤツが曹操様の悪口を並べていますが・・」門番が曹操に伝えたので、曹操は櫓から様子を見ると、それは禰衡でした。
「おのれ、、禰衡!!ワシを馬鹿にしおってからに、許さん!!」
曹操は、ここでようやく幻想から醒めて禰衡に殺意を抱きますが、ここで、禰衡を殺してしまっては、あいつの名声を高めるだけだと、必死でこらえて我慢しました。
曹操、禰衡を持てあまし、劉表に送る
曹操は禰衡を殺さず、穏便に処置する為に禰衡の紹介状を劉表に書きます。曹操「うちに有能なヤツがいるよ、少しツンデレだけど使ってみたらウヒョ♪」劉表(りゅうひょう)も元々は荊州にいた禰衡に興味を持ち禰衡に手紙を出しました。こうして禰衡は、散々悪口を並べ立てた許昌を離れる事になるのです。
禰衡、劉表、黄祖と流れ、最後を迎える
禰衡は、劉表の下では、当初は大人しく従い才能を発揮しました。しかし、劉表の配下には悪口を連発したので次第に嫌われるようになり、劉表に仕えていた黄祖(こうそ)の息子の黄射(こうしゃ)に誘われて、今度は江夏の黄祖に仕えるようになります。
ところが、ここでも禰衡は黄祖を罵倒するようになり短気な黄祖は怒り、禰衡を処刑してしまいます。亨年26歳、死ぬ寸前まで黄祖を罵ったという彼は筋金入りの奇人変人でした。
三国志ライターkawausoの独り言
全く安心出来ない全裸ネタで、とにかく明るい安村の魁?となった奇人禰衡、大権力者曹操に逆らう事で、歴史に名を残した彼ですが、孔融が絶賛した本当の政治の実力はどの程度あったのか、知りたいものです。