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魏の鄧艾の戦績とは?北伐の防衛と蜀討伐で強さを見せつけた漢の生涯

2021年6月7日


 

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前人未到のルートで蜀にたどり着いた鄧艾(トウ艾)

 

魏の武将「鄧艾(とうがい)」と言えば、特別なルートで蜀の都に攻め入り、滅亡させたことで知られています。その鄧艾は蜀征伐だけでなく、様々な戦いで勝利し、とても強い武将でした。

 

鄧艾

 

今回の記事ではそんな鄧艾の強い戦績を探ってみたいと思います。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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鄧艾が将軍になるまで

屯田民だった若き鄧艾(トウ艾)

 

鄧艾は父を早くに亡くし、母子で貧しい暮らしをしていました。後に故郷が曹操(そうそう)に侵略された際、屯田(とんでん)民として移住させられます。

 

吃音で悩まされた鄧艾(トウ艾)

 

12から13歳のとき、役所に召し出されそこで働くことになるのですが、「吃音」というハンデを持っていた鄧艾は疎まれていたといいます。

 

地理や地形に精通していた鄧艾(トウ艾)

 

鄧艾にはある趣味なようなものがあり、それは高い山や沼などを見つけると測量し、戦の際に適切な軍営の位置などを想像し、地図に記すことでした。このことが後の戦に役に立つことになるのです。

 

農業の知識が豊富な鄧艾(トウ艾)

 

後に都に使者として赴いた再、司馬懿(しばい)に才能を認めれられ、中央で働くことになります。そこでは農政で力を発揮し、運河の開通や屯田などを建策し、認められました。

 

姜維を撃退する鄧艾

鄧艾と姜維

 

鄧艾は南安太守に任命され、蜀との戦いの最前線に立つことになりました。249年に蜀の「姜維(きょうい)」が侵攻してきました。

 

姜維と鄧艾

 

鄧艾は郭淮(かくわい)と共にこれを撃退し、姜維は撤退。郭淮は姜維が去ったのを見計らい、姜維に協力していた異民族の征伐に向かいます。

 

 

鄧艾は姜維が引き返してくるのを見越し、また姜維が攻撃するだろう城を見抜き、そこに立てこもっていたのです。作戦を見抜かれた姜維は慌てて撤退したのです。この功績で鄧艾は将軍に任命されました。

 

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謀反人を征伐する鄧艾

カン丘倹(毌丘倹)

 

255年、毌丘倹(かんきゅうけん)文欽(ぶんきん)が反乱を起こしました。

 

晋の司馬師は玉座に座る

当時の魏の権力者「司馬師(しばし)」は反乱討伐の命令を出すと、鄧艾は通常の倍の速さで進軍し、他の者に先駆けて拠点を確保します。

 

蜀を滅ぼし己の功を自慢しはじめる鄧艾(トウ艾)

 

鄧艾はわざと隙をみせ、文欽を誘い出すと大軍でこれも打ち破り、文欽は呉に亡命します。これに応じて呉は大軍で魏への侵略を企てますが、それも撃退することに成功しています。

 

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北伐の防衛で強さを見せつける鄧艾

北伐したくてたまらない姜維

 

255年、姜維が再び北伐で侵攻してきました。迎撃にあたったのは王経(おうけい)という武将でしたが、散々に破られ、城に籠るも姜維に包囲されてしまいます。

 

姜維

 

そこに鄧艾が救援に駆けつけ、姜維を撃退。周囲の者は姜維に再び備える必要はないと主張していましたが、鄧艾は反論しました。

 

羌族に援軍してもらうよう使者を出す姜維

 

姜維の勢いや、支配地域の民の疲弊、魏軍の兵士の訓練不足などの理由を挙げ、警戒を怠りませんでした。

 

すぐに戦争したがる姜維

 

翌年、鄧艾の予想通り姜維が再び魏に侵攻。しかし鄧艾は姜維の動きを読み、散々に撃退したのです。

 

姜維の心中

 

その後もたびたび姜維は侵攻してきましたが、そのたびに鄧艾は打ち破り、その戦に強い様を見せつけたのです。

 

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姜維特集

 

蜀を滅ぼす鄧艾

司馬昭から蜀の討伐を命じられる鍾会と鄧艾(トウ艾)

 

263年、魏の最高権力者「司馬昭(しばしょう)」は蜀の征伐を決意します。その任には鄧艾と、名門出身の鐘会(しょうかい)が任じられ、それぞれ蜀に攻め込みます。

 

三国志 剣閣のお城

 

蜀は姜維が蜀への玄関口「剣閣(けんかく)」の防衛にあたりました。ここは天然の要害であり、とても攻めるのに難しい場所でした。

 

 

剣閣を攻めまくる鍾会、籠城する姜維

 

鐘会と鄧艾は何度か剣閣を攻めますが、容易に落とすことが出来ません。

 

毛布に包まり崖を転げ落ちる鄧艾(トウ艾)

 

そこで鄧艾は剣閣を迂回し、別ルートから蜀の首都成都に迫ることにしました。そのルートは前人未到の地であり、鄧艾は山に穴をあけ道を作り、時には崖から転がり落ちながら必死に進軍しました。そしてついに蜀の城がある江油(こうゆ)に到達。

 

降伏する劉禅

 

まさか敵が来るとは思わない城の守将は驚きあっさりと降伏してしまいます。突然の鄧艾の登場に驚いた蜀は、諸葛亮(しょかつりょう)の息子「諸葛瞻(しょかつせん)」を派遣します。

 

鄧艾(トウ艾)の息子・鄧忠(トウ忠)

 

鄧艾は息子の鄧忠(とうちゅう)などを出し、攻略に当たりますが、初めは敗北してしまいます。鄧忠などは「敵は強大で破ることが困難」と弱音を吐きました。鄧艾はこれに激怒し、剣を持って彼らを斬る勢いでした。

 

鄧艾と全面対決で敗れて亡くなる諸葛瞻

 

しかし、鄧忠らにもう一度チャンスを与え、死に物狂いの彼らは諸葛瞻を斬ることに成功します。

 

劉禅

 

この時蜀軍の主力は剣閣にくぎ付けになっていたため、もはや守れないと感じた蜀の君主劉禅(りゅうぜん)は降伏。蜀は滅亡します。

 

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劉禅

 

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みうらひろし

みうらひろし

歴史が好きになったきっかけはテレビの再放送で観た人形劇の三国志でした。そこから歴史、時代小説にはまり現在に至ります。日本史ももちろん好きですよ。推しの小説家は伊東潤さんと北方謙三さん。 好きな歴史人物: 呂蒙、鄧艾、長宗我部盛親 何か一言: 中国で三国志グッツを買おうとしたら「これは日本人しか買わないよ!」と(日本語で)言われたのが思い出です。

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