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孫策、若くして死す!その死因は「呪い」?

2021年11月27日


 

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孫策と孫権

 

孫策(そんさく)はのちに呉の皇帝となる孫権(そんけん)の兄で、江東地方を支配下にして後の呉の基礎を築いた人物です。その孫策、26歳という若さで亡くなっているのですが、その死因はなんだったのでしょうか?

 

 

一説によるとなんと「呪い」殺されたのだとか。今回の記事ではそんな不可解な孫策の死因について探ってみましょう。まずは孫策の生涯から。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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名声を得て「袁術」の傘下に入る

海賊時代の孫堅と孫策

 

孫策は反董卓(とうたく)連合軍に参加していた「孫堅(そんけん)」の息子として生まれました。孫堅は各地を転戦しており、孫策は母と弟たちと暮らしていましたが、その名声は高かったといいます。

 

袁術と周瑜と孫策

 

その名声を聞き、後に参謀となる「周瑜(しゅうゆ)」が孫策を訪ねてきます。そこで二人は意気投合、家族同然の付き合いをするようになります。その後、父が劉表(りゅうひょう)との戦いで戦死し、孫策の従兄が孫堅の軍を引き継ぎ、彼は当時力があった「袁術(えんじゅつ)」の傘下に入ることになります。

 

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袁術祭り

 

 

 

やがて袁術軍から独立する

袁術と孫策

 

袁術傘下で孫策は数々の戦いで戦功を立てました。そんな孫策を袁術は警戒し、十分な恩賞を与えることはありませんでした。孫策は袁術からの独立を模索し、人材確保に努め、この時「張昭(ちょうしょう)」「周泰(しゅうたい)」「陳武(ちんぶ)」らのちに呉の中枢を担う人材を手に入れることに成功します。

 

呉の勢力を率いる孫策

 

 

孫策は揚州(ようしゅう)を支配していた「劉繇(りゅうよう)」と戦いこれを破り、江東地方で地盤を確保します。そして電光石火の勢いで呉郡太守「許貢(きょこう)」、会稽郡太守「王朗(おうろう)」と戦い敗北させ、ますます勢いを加速し、ついに袁術から独立を果たします。

 

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民間伝承の三国志

 

父の仇を討つ

袁術

 

袁術は皇帝を名乗りますが、実力不足からあっという間に凋落し、あっけなく死んでしまいます。

 

大喬と小喬

 

袁術の勢力は「劉勲(りゅうくん)」に集まりますが、孫策は彼を攻撃し、本拠地を落とし、美人で有名だった「喬姉妹(きょうしまい)」を手に入れます。姉の「大喬(だいきょう)」は孫策の妻となり、妹の「小喬(しょうきょう)」は周瑜の妻となりました。

 

劉勲は劉表傘下の「黄祖(こうそ)」を頼りますが、彼は孫策の父孫堅を殺した仇でした。孫策は黄祖と戦い、彼とは孫権の代まで戦い続けることになり、父の仇を討つことに成功したのは孫策の死後でした。

 

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袁術くんの成長日記

 

 

無念の死

呉の小覇王・孫策

 

孫策は大きな勢力を確保し、袁紹と戦いを控える曹操(そうそう)の背後を脅かす存在となりました。そして孫策は曹操が袁紹と対峙している間に曹操の本拠地「許都(きょと)」を奇襲する計画を建てます。

 

孫策が早死すると予見する郭嘉

 

これを知った曹操陣営は動揺しますが、曹操の参謀「郭嘉(かくか)」は「孫策は各地で恨みを買っているのに無防備だ、無事ではいられないだろう」と予言しました。孫策は勢力拡大のスピードが速く、各地に反乱勢力を抱え、彼はそれに厳しい態度で臨み、反逆したものは粛清するなどし、恨みを買っていたのです。そんなある日、孫策が一人で外出した際、3人の刺客が彼を襲います。

 

ほっぺたに矢を受ける孫策

 

彼らはかつて孫策が殺した「許貢」の残党でした。孫策は一人を殺しましたが、他の二人に矢で射ぬかれ、重傷を負ったのです。そして傷は助からないほど悪化し、孫策は弟の孫権を後継者に指名し、張昭らに彼の補佐を任せ、無念の死を迎えました。享年25歳でした。

 

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郭嘉特集

 

 

孫策の死の異説

于吉

 

正史「三国志」の「注(後年追加された文。他の資料から引用している)」には孫策の死について不気味なエピソードを載せています。当時呉の地方では多くの信仰を集めていた「于吉(うきつ)」という道士(道教の指導者)がいました。

 

于吉、孫策

 

彼が多くの人を惑わしている、そして無礼だと判断した孫策は彼を捕えました。

 

多数の助命の声にも関わらず、孫策は「こんなものは無益である」と殺してしまいました。

 

于吉、孫策

 

しかし、孫策はそれ以来、于吉の幻影に付きまとわれ、精神が不安定になっていました。そんな時、孫策は襲撃されます。傷も癒えようかとした頃、鏡を見るといないはずの于吉の姿が!孫策は怒り暴れ、襲撃の傷が破裂して、死んだという事です。

 

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太平道の秘密

 

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みうらひろし

みうらひろし

歴史が好きになったきっかけはテレビの再放送で観た人形劇の三国志でした。そこから歴史、時代小説にはまり現在に至ります。日本史ももちろん好きですよ。推しの小説家は伊東潤さんと北方謙三さん。 好きな歴史人物: 呂蒙、鄧艾、長宗我部盛親 何か一言: 中国で三国志グッツを買おうとしたら「これは日本人しか買わないよ!」と(日本語で)言われたのが思い出です。

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