孫策はのちに呉の皇帝となる孫権の兄で、江東地方を支配下にして後の呉の基礎を築いた人物です。その孫策、26歳という若さで亡くなっているのですが、その死因はなんだったのでしょうか?
一説によるとなんと「呪い」殺されたのだとか。今回の記事ではそんな不可解な孫策の死因について探ってみましょう。まずは孫策の生涯から。
名声を得て「袁術」の傘下に入る
孫策は反董卓連合軍に参加していた「孫堅」の息子として生まれました。孫堅は各地を転戦しており、孫策は母と弟たちと暮らしていましたが、その名声は高かったといいます。
その名声を聞き、後に参謀となる「周瑜」が孫策を訪ねてきます。そこで二人は意気投合、家族同然の付き合いをするようになります。その後、父が劉表との戦いで戦死し、孫策の従兄が孫堅の軍を引き継ぎ、彼は当時力があった「袁術」の傘下に入ることになります。
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やがて袁術軍から独立する
袁術傘下で孫策は数々の戦いで戦功を立てました。そんな孫策を袁術は警戒し、十分な恩賞を与えることはありませんでした。孫策は袁術からの独立を模索し、人材確保に努め、この時「張昭」「周泰」「陳武」らのちに呉の中枢を担う人材を手に入れることに成功します。
孫策は揚州を支配していた「劉繇」と戦いこれを破り、江東地方で地盤を確保します。そして電光石火の勢いで呉郡太守「許貢」、会稽郡太守「王朗」と戦い敗北させ、ますます勢いを加速し、ついに袁術から独立を果たします。
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父の仇を討つ
袁術は皇帝を名乗りますが、実力不足からあっという間に凋落し、あっけなく死んでしまいます。
袁術の勢力は「劉勲」に集まりますが、孫策は彼を攻撃し、本拠地を落とし、美人で有名だった「喬姉妹」を手に入れます。姉の「大喬」は孫策の妻となり、妹の「小喬」は周瑜の妻となりました。
劉勲は劉表傘下の「黄祖」を頼りますが、彼は孫策の父孫堅を殺した仇でした。孫策は黄祖と戦い、彼とは孫権の代まで戦い続けることになり、父の仇を討つことに成功したのは孫策の死後でした。
無念の死
孫策は大きな勢力を確保し、袁紹と戦いを控える曹操の背後を脅かす存在となりました。そして孫策は曹操が袁紹と対峙している間に曹操の本拠地「許都」を奇襲する計画を建てます。
これを知った曹操陣営は動揺しますが、曹操の参謀「郭嘉」は「孫策は各地で恨みを買っているのに無防備だ、無事ではいられないだろう」と予言しました。孫策は勢力拡大のスピードが速く、各地に反乱勢力を抱え、彼はそれに厳しい態度で臨み、反逆したものは粛清するなどし、恨みを買っていたのです。そんなある日、孫策が一人で外出した際、3人の刺客が彼を襲います。
彼らはかつて孫策が殺した「許貢」の残党でした。孫策は一人を殺しましたが、他の二人に矢で射ぬかれ、重傷を負ったのです。そして傷は助からないほど悪化し、孫策は弟の孫権を後継者に指名し、張昭らに彼の補佐を任せ、無念の死を迎えました。享年25歳でした。
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孫策の死の異説
正史「三国志」の「注(後年追加された文。他の資料から引用している)」には孫策の死について不気味なエピソードを載せています。当時呉の地方では多くの信仰を集めていた「于吉」という道士(道教の指導者)がいました。
彼が多くの人を惑わしている、そして無礼だと判断した孫策は彼を捕えました。
多数の助命の声にも関わらず、孫策は「こんなものは無益である」と殺してしまいました。
しかし、孫策はそれ以来、于吉の幻影に付きまとわれ、精神が不安定になっていました。そんな時、孫策は襲撃されます。傷も癒えようかとした頃、鏡を見るといないはずの于吉の姿が!孫策は怒り暴れ、襲撃の傷が破裂して、死んだという事です。
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