今やパソコンやスマホでも一発変換される貂蝉(ちょうせん)といえば、多くの三国志作品において序盤に登場し、
董卓・呂布の暴ん坊親子をハニートラップ(美人連環の計)にハメて仲違いさせる女スパイです。
出番は多くはないものの、彼女がいなければ物語がはじまらないと言っても過言ではないくらい(?)、重要な構成員の一人といえるでしょう。
しかしこの女性、歴史書を見てもどこにも名前が見当たりません。
それもそのはず、貂蝉は実在の人物ではないのです。
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この記事の目次
貂蝉が三国志作品に登場するのはいつから?
貂蝉というキャラクターが三国志作品に登場するようになるのは、宋~元代から。
日本が大体、平安末期~鎌倉時代あたりの時のことです。
当初、貂蝉は苗字を任、幼名を紅昌といい、なんと呂布の生き別れになった奥さんでした(『三国志平話』)。
そこから更に、山西出身の任昂の娘だとか、貂蝉冠を管理する宮女だったので「貂蝉」というあだ名で呼ばれた(女房名みたいなものですね)とか、
呂布と結婚したものの戦乱で離れ離れになって王允に保護された――等々の後づけ設定が加わることになります(雑劇『錦雲堂美女連環計』)。
では貂蝉は完全なる創作キャラなのでしょうか。
実はそうとも言いきれません。というのも、モデルとなったとされる女性がいるのです。
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貂蝉のモデル1.董卓のメイド
腕っ節の強さを買われ、朝廷を牛耳るミスター董卓の養子となった呂布くん。
でも機嫌を損ねれば槍が飛んでくるしで、家庭環境に段々と不満を感じるようになっていました。
そんなある時、うっかりお義父さんの侍婢(メイド)に手を出してしまいます。
ヤバイ、バレたら今度こそタダじゃ済まない……内心気が気じゃありません。
つい、いつも良くしてくれる大臣の王允に、「そろそろ殺されそう」とポロリとこぼします。
実はかねてより董卓暗殺を計画していた王允、チャンスとばかりに呂布をそそのかします。
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女性関係で呂布は董卓を裏切る
殺られる前に殺ってやれ……と言ったかどうか、ともかく日頃の鬱憤の上に女性関係がきっかけとなって、
呂布は董卓を裏切ることになるのです(『後漢書』呂布伝、『三国志』呂布伝)。
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何で、呂布は侍婢と密通したの?
ここで不思議なのは、絶体絶命のピンチになると分かっていながら、なぜ呂布は侍婢と密通などしたのでしょう。
単にバカなのか?(その可能性は否めません) それとも自制を忘れるほどの美女だったのでしょうか?
あるいは何か並みならぬ事情があったのか? 露見することを恐れていたあたり、きっと董卓のお気に入りのメイドさんだったに違いありません。
それにつけても、まるで測ったような王允のタイミングの良さ。
でも、いかにも名士で官僚タイプっぽい王允が、呂布のような無頼な人種と本当に仲良くなどするものでしょうか。
実はすべて王允が仕組んだことだったりして? するとこのメイドも回し者? 美しき女スパイ……イイ!
こんな妄想がストーリーテラー達の頭の中を巡ったのかもしれません。
貂蝉のモデル2.呂布のワイフ
『三国志』魏書呂布伝に引用される『英雄記』に、呂布が奥さんから「かつて長安で私を棄て(て逃げ)た」と詰られるシーンがあります。
つまり彼女は、呂布が董卓の養子になったあたりから、董卓暗殺後、長安を追われるまでの間に結婚した奥さんであり、
これが①のメイドさん=貂蝉ではないかということです。
命がけのお付き合いだったのですから、主人・董卓亡き後は当然晴れて結ばれたのだろうと思うところ。
そのわりにあっさり見棄てて逃げちゃってますが。
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貂蝉のモデル3.秦宜禄のEXワイフ
呂布の配下の秦宜禄には、杜という苗字の、大変美しい奥さんがいました。
下邳城で呂布が曹操・劉備軍に包囲されると、秦宜禄は救援要請の使者として城外に出されます。
ところがその派遣先で何故か杜氏と離婚させられた上、新しい女性と再婚させられてしまいました。
下邳に残された憐れな杜氏。
関羽と曹操が一人の女性を取り合った?
その美しさを知っていたのでしょう、劉備の配下の関羽が鼻息も荒く……もとい、ここぞとばかりに総大将の曹操へうかがいを立てました。
「この戦いが終わったら杜氏を貰っていいッスか!」 何も知らない曹操は「よきにはからえ」と気前よくOKします。
ところがどっこい、いざ戦が終わると、曹操は杜氏の美貌を見て惜しくなり、
しれっと自分のハーレムに加えてしまいました(当時の女性の扱いとはこうしたものでした)。
約束を反故にされた関羽の心中は穏やかではなかったようです(『三国志』蜀書関羽伝)。
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関羽と貂蝉の悲恋物語
この史実を下地に、杜氏が貂蝉にすりかわり、関羽と貂蝉の悲恋物語だとか、関羽が貂蝉を斬り殺すという過激かつ悲劇な民間説話へと発展するのです。
余談ですが、後日どんなに曹操がご機嫌取りをしても関羽がなびかなかったのは、案外この時のことを根に持っていたからなのかもしれませんね。
以上3人の女性を紹介しましたが、彼女たちの存在がどこまで本当に参考にされたのか、実際のところは不明です。
しかしながら、挑戦は歴代のストーリーテラー達の手によって確かに創られ、受け継がれていき、
架空の人物でありながら中国四大美女の一人に数えられるほど人気を博することになったわけです。
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貂蝉は本名ではない
ここでもう一つ、ネーミングについても少々。
前編でちらりと述べましたが、「貂蝉」は本名ではなく、通称です。
「貂蝉」というのは元々「蝉の文様」と「貂のしっぽ」というワンセットの装飾のことでした。
貂はイタチみたいな動物のことです。
そして官吏、特に皇帝の身の回りの世話をする侍従官の冠にこの飾りがついていたので、やがて「貂蝉」は侍従官自身や、
その冠そのものを指すようになり、転じて高官の意味になったりしました。
貂蝉は女官を意味した?
ちなみに巷では、「後漢当時の女官は貂蝉飾りの冠をしていたことから、『貂蝉』は女官を意味した」とする話がありますが、
お分かりのとおり貂蝉飾りの冠は男性官吏の方が一般的でしたから、この説は正確ではありません。
逆に後漢時代の女官が貂蝉飾りの冠をしていたという記録は、史書に見られません。
はっきり分かるのは、北魏の時代に女性侍従官の冠に貂蝉の飾りが加わったということだけです(『北史』任城王澄伝)。
そもそも「貂蝉冠」という言い方自体、宋代以降に出てくるものなので、
後漢の人である貂蝉が、「貂蝉冠」の担当女官だったからこの通称になったというのは、色々と時代的にかみ合わないのです。
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三国志ライター楽凡の独り言
これは推測ですが、最初に女スパイ・貂蝉を創作した宋代や元代の人は、このことを知らずに、
うっかり「貂蝉」をニックネームに設定してしまったのではないでしょうか。
そして時を経て、大ヒット小説『三国志演義』によって本名である「任紅昌」も削られてしまったことで、余計に謎が深まることとなったのかもしれません。
でもそれがかえって、よりミステリアスなイメージを貂蝉像に与えたとも言えます。
なお、唐代の占い本『開元占経』には、『漢書通志』という書物を引用して、曹操が董卓に「刁蟬」を紹介して誘惑させたと書かれていたそうです。
現在確認できる限り、この占い本にその記述は見当たりませんが、もしこれが本当だとすれば、別の想像の輪が広がって面白そうですね。
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