魏の五都の人口は?魏は斉になっていた?斉・呉・蜀の三国志

2015年11月7日


三国志地図

 

(ぎ)、呉(ご)、蜀(しょく)の中でも、は圧倒的な勢力を有していた事は

三国志ファンなら、誰でも知っている事だと思います。

では、その魏の中でも五都と呼ばれて特に重要視された五都市の事は、

知っていますか?

今回は、知られざる魏の主要都市を紹介してきましょう。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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小説だけでは分からない、魏の五都とは

魏の五都

 

魏の五都とは、後漢の帝都があった、洛陽、前漢の帝都があった長安

袁紹(えんしょう)の本拠地であった鄴(ぎょう)、後漢の献帝が鎮座した許(きょ)

そして曹操の出身地の譙(しょう)の五つの都市を指しています。

これらの都市は、政治的に重要だったり人口が多かったりと、魏にとっては、

無くてはならない拠点として機能していました。

 

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魏の五都の人口は、どの程度だったのか?

世界情勢

 

あくまでも、都市の人口であり州の人口とは違いますが、

洛陽、長安、鄴、許、譙の人口は以下の通りだったようです。

 

洛陽・・・・50万人

長安・・・・12万人

鄴・・・・・12万人

許・・・・・不明(データ無し)

譙・・・・・不明(データ無し)

 

これは、あくまでも戸籍に掲載されている分の人数であり、

後漢末の戦乱で田畑を捨てて農業以外に従事している人や、

屯田民である、兵戸や民戸はカウントには入っていません。

 

また、豪族の私有民となった人々も私民で公民ではないので、

その人数は戸籍にはカウントされません。

 

そういう事を勘案すると実際の人口は、上のデータの倍位は、

いたのではないかと考えられます。

 

知ってた?実は帝都では無かった許昌

現実主義曹操

 

魏の都というと、許、もしくは許昌と答える人が多いです。

かくいうkawausoもそうでしたが、実は三国志の時代を通じて、

魏の首都が許だった事は、ただの一度もありません。

 

曹操の時代の首都の役割を果たしたのは元々は袁紹の本拠地であった鄴で

曹操の死後は、曹丕(そうひ)によって洛陽に遷都しています。そんなわけで、許は

一度も都になった事がないのです。

 

許は長安の李傕(りかく)、郭汜(かくし)の横暴から逃れた献帝(けんてい)を

保護して皇帝の仮の住まいにしたというだけの場所であったようで、

行政単位も県であり、規模も大きなものではないようです。

 

それでも、皇帝のいる場所が世界の中心という当時の考え方としては、

あくまで精神的な漢の首都という意味合いもあり神聖な土地でした。

 

曹操が鄴を首都としていた意外な理由

董卓えらそう 独裁

 

では、どうして曹操は、旧都であった洛陽ではなく鄴を本拠地にしていたのでしょう。

一つの理由には、洛陽が董卓(とうたく)による暴政の被害から回復していないという事もありますが本当の理由は、袁家の残党に睨みを効かす為だと言われています。

 

三国志演義では、曹操に敗れた優柔不断なダメ君主のように描かれる袁紹(えんしょう)ですが、

彼が地盤を置いた北方四州の民心は、袁家に非常に懐いていました。

袁紹が曹操に敗れた直後も、好機と見た反対勢力が反乱を起していますが、

いずれも簡単に袁紹に鎮圧されてしまっている程です。

 

特に本拠地であった鄴は、袁家を懐かしむ声が袁家が滅亡して数十年しても

あったという程に親袁・反曹の気風があったようで、曹操は造反を防ぐ理由からも

鄴に拠点を置き続けないといけなかったようです。

 

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もし、曹操が本拠地を鄴に置かなかったら、魏は斉になっていた!

 

鄴は、春秋時代の斉の桓公(かんこう)が城塞都市を建設した事に遡る都市ですが、

戦国時代には、魏の領地になり、一時、趙の領地になった後、

秦の将軍、王翦(おうせん)により攻略されて秦に編入されます。

その事から、鄴は魏領として考えられたので曹操も国号を魏と称していました。

 

もし、曹操が鄴を拠点としないで、故郷の譙を本拠地にしていたなら、

その土地は、元は斉の領地だったので、曹操も国号を斉にしていた事でしょう。

そうなれば、・呉・蜀の三国志という事になり、曹操は斉の武帝と呼ばれた

かも知れないのです。

 

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三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

そうなると、曹操の書いた魏武注孫子は、斉武注孫子になってしまい、

曹丕は斉文帝になってしまい、晋が滅ぼすのは、曹斉という事になります。

別に、斉がカッコ悪いという訳ではないですが、なんか、間の抜けた

イメージになると思うのは、私だけでしょうか?

やはり曹操は、魏=赤色というのがカッコいいのではないかと思います。

 

本日も三国志の話題をご馳走様でした。

 

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歴史ライターとして、仕事をし紙の本を出して大当たりし印税で食べるのが夢です。
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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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