100年に及ぶ、三国志の時代には、名将、愚将、謀将、勇将、様々なタイプの武将が登場して、三国志の物語を彩っています。しかし、その中には規格外な奇人変人や、どうして、そんな行動を?と思うような、クレイジーな人々も存在しています。
三国志本編ではスルーされがちな、そんな人々をここでは紹介してみましょう。
この記事の目次
追いつめられてわけわかんなくなった、成済(せいさい)
成済は、魏の太子舎人という皇太子を護衛する任務にありました。西暦260年、魏の4代皇帝、曹髦(そうぼう)は、司馬昭(しばしょう)の専横に我慢できず、廃位される前に討伐するとして、召使い数百人を引き連れて、司馬昭の屋敷に向かいます。
異変を知った、司馬ユウは、これを制止しようとしますが、曹髦が一喝すると配下は、皆、皇帝の威光を恐れて逃げてしまいます。実は曹髦は19歳とはいえ、曹操(そうそう)の再来と言われた武勇の持ち主で、かなり度胸も据わっていたのです。その次に出現したのが、司馬昭の腰巾着の賈充(かじゅう)の護衛兵です。成済は、この賈充の配下でしたが、エキサイトする曹髦を傷つけずに捕えるのは不可能な状態でした。
「どう致しましょう、このままでは支えきれません」
成済は、賈充に指示を求めますが、賈充は自信満々に言います。
「私が、お前達を雇ってきたのは賊から身を守る為ではないか後の事は心配いらぬ、殺れ!!」
賈充に許可を受けた成済は、曹髦の間合いに踏み込み、剣が背中を貫通する程の傷を与え、即死させました。
案の上、トカゲの尻尾切り、成済はパニックになり・・
しかし、成済の罪は、皇帝殺しであり、ただで済むわけはありません。卑怯にも賈充は、曹髦殺しは成済が勝手にやった事で三族皆殺しが相当しますと、郭皇太后に上奏したのです。(本当に酷い話・・)
「ちょっと待てよ!!俺は、賈充が殺れって言ったから殺したんだ!!俺のせいじゃない、賈充が悪いんだよぉ!!」
成済は、無実を訴えますが、誰もかかわりあいを恐れて、話を聞こうとはしません。追いつめられてパニックになった成済は、何を思ったか、宮殿の屋根に登り上半身裸になって、大声で喚きました。
「聞け!皆の衆!! 皇帝殺しは、司馬昭!そして、実行犯は、賈充のヤツなんだ!俺は、命令されただけだァァ!!」
しかし、そんな暴挙が許されるわけもなく、賈充は、護衛兵を集めて、宮殿の屋根に矢を射かけ成済を射殺しました。気持ちは分からんではないですが、どうして宮殿の屋根に昇って、罵詈雑言を並べたのでしょう、フリーですね。
恐ろしいスタイルで諫言、王累(おうるい)・・
王累は、益州の人で益州牧、劉璋(りゅうしょう)の忠実な配下でした。そんな益州に、曹操に追われて後がない劉備(りゅうび)が乗り込んできます。劉璋は、劉備を益州に呼び込んで、漢中の張魯(ちょうろ)を討伐させたかったのです。
張松(ちょうしょう)や、法正(ほうせい)のように劉璋を見限っている家臣は、劉璋に劉備を迎え入れる事を進言しますが、王累は劉備の危険性を見抜いて、黄権(こうけん)劉巴(りゅうは)達と共に反対しました。
「劉備は仁君などではありません、奸雄ですぞ!おおかた、曹操に追われ、切羽つまって益州を領有しようと企んだに違いありません。これを迎えれば、庇を貸して、母屋を奪われますぞ!!」
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城門に逆さ吊りで、諫言するも入れられず・・
しかし、張魯を恐れる劉璋は、王累の諫言に耳を貸しません。同僚の黄権は、劉璋のボンクラぶりに呆れるだけでしたが、王累は諦めません。
なんと、わざわざ、成都城の城門に自分をロープで、逆さにくくりつけて劉璋に諫言したのです。
怖い、怖すぎます、、でも、、そんな事で説得力は増さないでしょう。案の定、劉璋は気味悪がり、王累の諫言を却下、、それを知った王累は絶望し、ロープを切って地面に落ちると、剣で首を刺して自殺しました、その感覚フリースタイルです。
あんたは宇宙人か?自分が寝返らせた相手を罵倒・・虞翻(ぐほん)
虞翻は、揚州会稽郡の人ですが、ものすごい宇宙人のような人です。彼は、孫権(そんけん)の臣として、荊州に地盤を持つ、関羽(かんう)の勢力を切り崩そうとします。そして、関羽に嫌われていた、士仁(しじん)と縻芳(びほう)を寝返らせる事に成功、両者は、関羽を見捨てて、呉に降伏して孤立した関羽は戦死します。
士仁と縻芳は降将として、呉将として処遇されますが、縻芳を見た虞翻は怒りを露わにし、これを「恥知らず」と罵倒したそうです。
あれ?縻芳は、あんたが寝返りさせたんだよね?
これを史書では、虞翻は曲がった事が嫌いだったと書いてありますが、幾らそうでも、自分が寝返らせた武将に「恥知らず」はないでしょう・・それについて、縻芳は、何も言い返さず恥ずかしそうにしていたそうですが、内心は、「あっれえ?俺、確か、虞翻の説得で降ったんだけど」とか、思っていたに違いありません。まさに、やってる事と言ってる事が、アベコベ自由すぎる宇宙人武将です。
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同僚には悪夢、上司が大甘でクビにならない、、性格最悪の文欽
文欽(ぶんきん)は魏の将軍で名将、文鴦(ぶんおう)の父でした。父の文稷(ぶんしょく)は、曹操に仕えて功績があった武人で、文欽も武勇に秀でていたようです。しかし、文欽は凄まじく性格が悪く、礼節もわきまえず、同僚も上司も侮辱して、どの職についても、それを全うできませんでした。
ところが、すぐに牢獄にぶち込まれそうな彼を魏帝、曹叡(そうえい)は庇って、廬江太守・鷹揚将軍に昇進させました。駄目です!そんな甘い事ではと思いますが、案の定、庇われた文欽の横暴さは全く治りませんでした。
その後、曹叡が死去すると、曹芳(そうほう)が即位しますが、まだ幼く、後見として曹爽(そうそう)が立つ事になります。この曹爽は、文欽と同じ村の出身というタイミングの最悪さでした。
すでに、横暴さと残忍さを弾劾されて、廬江太守を追われて、中央に戻されていた文欽ですが、またしても曹爽は同じ故郷という理由で特に調べずに、文欽を廬江太守に戻して、冠軍将軍に昇進させます。文欽は、これでますます奢り高ぶり、周囲はさらに迷惑しました。
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毌丘倹(かんきゅうけん)の乱に加担、呉に逃れるもまた嫌われる
そんな文欽も、曹芳が司馬師(しばし)に廃位されると、武将の毌丘倹に同調して、反乱を企てます。毌丘倹は、司馬師の天下に不安を感じての反乱ですが、
文欽は、司馬師の時代になると、水増しした戦果がバレて、重く使われなくなったという、ただの個人的な恨みでした。本当につくづく、性格の悪さが露呈しています。
毌丘倹は反乱に失敗して、司馬師に鎮圧され、文欽は反乱に呼応して、やってきた呉軍に合流して呉に降ります。
呉に行くと、少しは大人しくなるかと思いきや、文欽の態度は変わらず、今度は呉将に恨まれるようになります。ところが、やはり、上司の呉の実力者、孫峻(そんしゅん)には、重んじられ、仮節(かせつ)、鎮北大将軍、幽州牧、譙侯(しょうこう)に任命されます。これも投降者を重んじるという呉の方針なんでしょうが、文欽を嫌う呉将の怒りに油を注ぐには、十分だったでしょう。
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魏から降った仲が悪い諸葛誕に刺し殺される、魏では大喜び
西暦257年、揚州の都督だった魏将、諸葛誕(しょかつたん)が司馬昭に反乱を起こします、同時に誕は、呉に臣従する事を通告したので、呉も即座に呼応し、文欽や、全端(ぜんたん)、全懌(ぜんえき)、唐咨(とうし)を送り込みました。文欽達は、魏軍の兵を突破して、寿春城に籠城する諸葛誕に合流します。
ところが、司馬昭は、寿春城を大軍で二重に取り囲みます。文欽はあわてて、城外に出ようとしますが、今度は無理でした。次第に食糧がとぼしくなる城内でも文欽の性格の悪さは炸裂します。実は諸葛誕は、魏にいる頃から文欽が大嫌いでした。それが追いつめられた状況に拍車をかけて、ある時、諸葛誕は、文欽を刺し殺してしまうのです。
その知らせを聞いた、魏の人々は、文欽の死を大喜びしたようです。亡命してまで、古巣でこんなに嫌われるなんて、フリーすぎる極悪人です。
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三国志ライターkawausoの独り言
さて、三国志に登場するフリースタイルな武将について紹介しました。いずれも、劣らぬ奇人・変人、悪人揃いで、三国志はびっくり人間見本市でもあるんだなあと思いを新たにしました。個人的には、虞翻が、一番、わけわかりませんでしたが・・