司馬師とはどんな人?クーデターを成功させた晋建国の功労者


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司馬師と司馬懿は晋建国の功労者

※こちらの記事は「大戦乱!!三国志バトル」専用オリジナルコンテンツです。

 

諸葛孔明(しょかつこうめい)の最大のライバルである司馬仲達(しばちゅうたつ)司馬懿(しばい)は孔明を破った後、曹魏政権の重鎮として実力を蓄えていき、

西暦249年高平陵(こうへいりょう)の変で曹魏を乗っ取り、晋王朝の基礎を建てます。

ところが、この高平陵の変、司馬懿だけの力で起こされたものではありませんでした。

事実上、高平陵の乱を計画し実行に移した黒幕、それこそが司馬懿の長男である司馬師(しばし)だったのです。

 

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出世が速かった司馬師

 

司馬師は、字を子元(しげん)といい、司馬懿の長男でした。

司馬師は非常に容姿が美しく威風堂々(いふうどうどう)としていて、性格も豪胆でありながら謙虚で物静かであり、多くの智謀を持っていたと言われています。

若い頃から非常な名声で、時代の寵児だった夏侯玄(かこうげん)何妟(かあん)と匹敵する人望がありました。

 

友人の何妟は常々「ただ子元だけが天下の務めを果たす事が出来る」と激賞しています。

 

司馬師は、とんとん拍子に累進していき、30歳前後で散騎常侍(さんきじょうじ)に任命され、中護(ちゅうご)軍になりました。

散騎常侍は、皇帝の近くに仕える侍従で中護軍とは、皇帝を守る近衛部隊の指揮官です。

また司馬師に人材を推挙するポストを任せると、常に功績に応じた人材を推挙したので役人は不満を持たず、汚職なども起きなかったそうです。

 


 

高平陵の変では、司馬懿と主導的な役割を果たす

司馬師と司馬懿

 

見た目は従順に魏に仕えているように見えた司馬師ですが、心中では明確に天下奪う機会を狙っていました。

 

折しも、政治の実権を握る曹爽(そうそう)が蜀討伐の失敗などで求心力が低下すると、司馬師は父の司馬懿と謀り当時の宮廷を牛耳っていた曹爽一派の排除を

計画します。

 

しかし、軍を動かそうにも当時、司馬懿は曹爽との政争で地方に飛ばされていて、軍権を握っているとはいえ勝手に兵を動かす事は出来ませんでした。

一方の司馬師は前もってクーデターに備えて三千人という命知らずの壮士を極秘で雇っており、すでに洛陽の各地に潜伏させていたのです。

 

これは一年やそこらで出来る事ではありません。

また、司馬師は中護軍を率いていて散騎常侍という洛陽の事情に通じる立場にあり曹爽一派の動向を逸早く掴める立場にいました。

こうして見ると司馬師は、かなり昔からクーデターのチャンスを狙い、むしろクーデターに消極的な父、司馬懿を引き込んだのだと考えられます。

そうでなかったとしても、司馬師の力なしに司馬懿のクーデターは不可能でした。

 

西暦249年の正月、曹爽一派が曹叡(そうえい)の墓参りの為、皇帝曹芳(そうほう)を連れて洛陽を出ました。

その隙を突き、司馬師と司馬懿は遂にクーデターを決行します。

司馬師は3000人の壮士を活用して洛陽の内外の城門を完全に封鎖、厳戒態勢を敷きます。

この後、司馬懿は宮廷へ参内し

「曹爽が政治を私物化しているのでこれを打倒したい」と弾劾。

郭皇太后(かくこうたいごう)より曹爽討伐の勅を受けて近衛兵の掌握に成功しました。

 

これらの計略は、全て司馬師と司馬懿の間で計画されていました。

司馬師の弟の司馬昭(しばしょう)はクーデターの前日に、突然計画を明かされて仰天。

緊張し寝付けないまま朝を迎えますが、司馬師は成功を確信し熟睡していたそうです。

 

さて、留守中に洛陽を制圧されて帰るに帰れなくなった曹爽ですが、彼は父の曹真(そうしん)とは比較にならない意気地のない人物でした。

皇帝を擁していながら戦争に踏み切る覚悟もなく部下に反撃を進言されても右往左往。

結局「降伏すれば命までは取らない」という司馬懿の甘言を信じあっさり降伏。

かくして司馬師はクーデターの功労者として長平郷侯(ちょうへいごうこう)になり衛将軍に昇進します。

 

降伏した曹爽は司馬懿に難癖(なんくせ)をつけられて追い詰められていき、最期には三族皆殺しにされ滅んでしまいました。


 

司馬懿が死去すると全権を掌握

司馬懿に敬意を払う司馬師

 

西暦251年、司馬懿が死ぬと、皇帝曹芳は司馬懿の役職をそのまま司馬師に引き継ぎ

()軍大将軍となった司馬師は、事実上、国政を見る地位になります。

翌年正月、司馬師は大将軍となり侍中(じちゅう)を加えられ持節を持ち、魏の軍勢を統括、さらに録尚書事(ろくしょうしょじ)を兼ねて軍事でも魏の頂点に立ちました。

 

司馬師は政治の刷新を唱え百官に命じて賢才を挙げさせ、各々の職業の人々が安心して暮らせるようにし生活に困っている人民には援助し、

政治が滞らないようにさせました。

 

将軍として、諸葛誕(しょかつたん)陳泰(ちんたい)毌丘儉(かんきゅうけん、)王昶(おうちょう)胡遵(こじゅん)に四方の軍を任せ、王基(おうき)州泰(しゅうたい)鄧艾(とうがい)石苞(せきほう)が州郡を治め

盧毓(ろいく)李豊(りほう)が人材登用を監督し、傅嘏(ふか)虞松(ぐしょう)が計謀に参加し、鍾会(しょうかい)夏侯玄、(かこうげん)陳本(ちんぽん)孟康(もうこう)張緝(ちょうい)を政治のブレーンとして

活用したので朝野は粛然となり治まったと言います。

 

また、司馬師は急激な改革を是とはせず、ある人がある制度を廃止して改めたいと請うと、

 

「現在の制度は古の()(いん)(しゅう)から連綿と続いていた事で簡単に廃止せずに順守すべきだ。

軍事だけは例外だが、それ以外では(みだ)りに改廃して国政を混乱させないように」と釘を刺しました。

 

これは消極的な態度にも見えますが、まだ、統一されたわけでもない国情で、改革、改革とやってしまい国が弱体化する事を恐れたのかも知れません。


  

 

 

強敵諸葛恪と戦い敗れるも禍転じて・・

クーデターを成功させた晋建国の功労者 司馬師

 

西暦252年、呉の大黒柱孫権(そんけん)が死去します。

前年に司馬懿の後を継いだ司馬師は、これはチャンスと呉の領地である東興を攻めました。

ところが司馬師が派遣した諸葛誕、胡遵、それに監軍の司馬昭は呉の諸葛恪(しょかつかく)の前に大敗します。

 

この時、魏では無謀な作戦で敗北した将軍達を処罰すべきだという声が広がりました。

しかし今回出征したのは、いずれも司馬師が抜擢した将軍ばかりであり、おまけに弟の司馬昭まで入っているのです。

これを処罰すると司馬師は自身の腹心達を失いますし、だからと言って処罰しないと

「身内びいきで信賞必罰(しんしょうひつばつ)が徹底していない!」と世間に不満をもたれます。

 

そこで、司馬師は思い切った作戦に出ました。

すべての責任は出兵を許可した自分の不徳だと天下に謝罪したのです。

このウルトラCで世間は「さすが司馬師だ」と納得して不満は沈静化したのでした。

反司馬師の勢力は、これを機に司馬師の勢力を弱体化しようとしたのですが、見事に失敗したのです。

ここは豪胆にして緻密な計算ができる司馬師の作戦勝ちでした。

 

魏に大勝した諸葛恪は気を良くし、翌年には合肥新城を大軍で包囲しました。

これに対し、魏の朝廷は大慌てになりますが、司馬師は落ち着き払い、太尉の司馬孚(しばふ)、鎮東将軍毌丘倹、揚州刺史の文欽(ぶんきん)

20万の大軍を与えて、あえて諸葛恪と戦わずに持久するように命じます。

 

諸葛恪は前年の勝利に慢心(まんしん)し、魏領に深入りし過ぎて補給に難がありました。

さらに合肥新城は小城ながら難攻不落、攻めあぐねる間に呉軍では疫病が流行し大勢の兵士が死ぬ大損害を出しました。

諸葛恪はやむなく退却、魏軍は兵力を損なわず前年の雪辱を果たしたのでした。

 

自分を排除しようとした皇帝曹芳を廃位

李豊を蹴る司馬師

 

西暦254年、今度は皇帝の曹芳が皇后の父である張緝や李豊(りほう)らに勅命を下して司馬師を排斥し夏侯玄を後釜にしようと運動した事が発覚しました。

それを知った司馬師は密かに李豊を自宅に招いて証拠を突きつけると、クーデター失敗を知った李豊は口を極めて司馬師を罵倒(ばとう)しました。

 

それに怒った司馬師は、配下の壮士に命じて刀環で李豊の腰を強打し殺害。

ついで、張緝や夏侯玄を捕らえて三族皆殺しにした上に皇后の張氏にも皇太后の命令として死罪を命じました。

 

さすがに、曹芳を処刑する事は出来ないので、司馬師は曹芳の廃位を決意し、皇太后命令で曹芳の素行不良を理由にして廃位、

彭城王曹據(そうきょ)を新しい皇帝にしようとします。

 

しかし、曹據は曹操の子であり、世代を遡るタブーを侵していると郭皇太后は猛反対。

新しい皇帝に高貴郷公(こうきごうこう)(ぼう)を推し司馬師と対立します。

結局、ここでは郭皇太后の意見が通り高貴郷公髦は即位、皇帝曹髦(そうぼう)になります。

 

毌丘倹・文欽らの反乱を鎮圧

眼球が取れる司馬師

 

司馬師により次々と重臣が粛清される事に恐怖を感じた毌丘倹と文欽は殺られる前に殺れとばかりに6万の兵で挙兵します。

 

当初、朝廷では誰か将軍を派遣して討伐させるべきという意見でしたが、鍾会、王粛、傅嘏は司馬師が軍を率いるべきだと主張し

司馬師は応じて出陣しました。

結局、この時に自ら討伐に出たことが司馬師の寿命を縮める事になります。

 

戦いが始まると、準備不足の為に毌丘倹に呼応する筈の部将達が続々と投降、支えきれなくなった毌丘倹はやむなく項城に移りました。

 

司馬師は、毌丘倹を追撃する事なく、高い土塁を築いて東の軍が集結するのを待ちますが、部下達は「追撃しましょう」と進言、

司馬師はこれを押しとどめました。

 

「君たちは一を知っていて二を知らない、淮南の将兵には、元々叛意などないのだ。

毌丘倹と文欽の計画は杜撰(ずさん)でいきあたりばったり、見物しておけば勝手に自壊しよう

それを無理に戦えば、あちらは生きる為に結束する事になり、無駄な犠牲を出すだけだ」

 

こうして、司馬師は諸葛誕を寿春に、胡遵を宋と礁に派遣して反乱軍の退路を断ちました。

 

反乱軍は、司馬師に押され大半がやる気ないモードでしたが、一人だけ血気盛んな武将がいました。

文欽の息子で18歳になったばかりの文鴦(ぶんおう)です。

 

彼は、毌丘倹と文欽が司馬師の軍に敗れて敗走した時にも、一人踏みとどまり騎兵十数騎で、魏軍の陣地に突撃し、

次々と陣営を落とすという戦果を挙げます。

司馬師は文鴦の奇襲に驚き、討ち取る為に兵を派遣しますが、無理がたたり手術していた左目がスポーンと外に飛び出してしまいました。

 

実は司馬師、戦いの前に持病だった左目の下の悪性の腫瘍(しゅよう)を切除していたのです。

ですが、傷が治りきらない間に出陣となり、さらに眼圧があがる事態が続いたので左目が傷口の穴を通して飛び出してしまったのでした。

 

驚いた司馬師は、慌てて目を戻しますが、痛くて仕方がありません。

しかし、戦争の指揮の真っ最中、まさか「病院行くから戻る」という事も出来ません。

痛みを我慢して指揮を執っていた司馬師は目元の傷を布団で隠していましたが、激痛に耐える為に布団を噛んだので、

布団はビリビリに敗れていたそうです。

 

傷が悪化し高熱を出し大往生

失敗し落ち込む司馬師

 

なんとか反乱を鎮圧した司馬師ですが、目玉の痛みはとまらず、やがて高熱が出て寝込み、間もなく危篤状態に陥ります。

死を覚悟した司馬師は弟の司馬昭を呼んで全権を委ねると47年の生涯を閉じます。

多くの政敵を打ち倒し、これからという矢先の無念の死でした。

 

 

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