もし孫策が暗殺されなかったら、三国志はどうなっていた?諸葛亮は孫策に仕官するのではないか?

2021年11月11日


 

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呉の勢力を率いる孫策

 

孫策(そんさく)」と言えば、「江東の小覇」として江東の地に勢力をあっという間に拡大し、後の王朝「呉」の基礎を築いた人物ですね。しかし、若くして暗殺されてしまい、弟の孫権(そんけん)が跡を継ぐことになるのです。

 

ほっぺたに矢を受ける孫策

 

そんな孫策がもし、暗殺されていなかったら、その後の「三国志」はどうなっていたのでしょうか? 今回の記事では妄想してみましょう。先ずは孫策の生涯から見てみます。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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孫堅の息子として生まれ、周瑜と出会う

孫堅(37)の自慢の息子たち 孫策(17)、孫権(10)

 

孫策は反董卓(とうたく)連合軍に参加していた「孫堅(そんけん)」の息子として西暦175年に生まれました。父は転戦のため留守がちで、母と弟たちと暮らしていましたが、10代のころから孫策の名声はとどろいていました。

 

呉の周瑜、孫策、程普

 

その名声を聞き、名家出身の「周瑜(しゅうゆ)」が孫策の下を訪ねます。ここで二人は意気投合、家族同然の付き合いとなり、周瑜は孫策の勢力拡大に大いに貢献することになります。

 

孫堅逝く

 

そんな時に父孫堅が戦死、孫策は当時勢力を拡大していた「袁術(えんじゅつ)」の傘下に入ることになります。

 

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袁術祭り

 

 

 



江東の地に名を轟かせるが・・・

イケメン孫策と袁術

 

袁術の下で孫策は戦功を重ねますが、袁術はそれに報いることはせず、孫策は不満を募らせます。

 

呉の小覇王・孫策

 

そんな時に袁術は「揚州(ようしゅう)」を支配していた「劉繇(りゅうよう)」と戦いを始め、孫策はそんな劉繇を戦で破り、そこで基盤を築き、袁術からの独立を模索します。孫策は更に「呉郡」「会稽郡(かいけいぐん)」を手に入れ、袁術から独立し、「江東の小覇王」として勢力を拡大します。

 

周瑜と張昭に孫権を頼んだと依頼して亡くなる孫策

 

しかし、勢力拡大の過程で多くの恨みを買っていた孫策はかつて処刑した者の配下に襲われ、25か26歳にして死んでしまいます。その後は弟の「孫権」が跡を継ぎ、「呉」を建国することになるのです。

 

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英雄の死因

 

 

もし孫策が暗殺されなかったら?

呉の小覇王・孫策

 

ここからは妄想になります。もし孫策が刺客の暗殺を切り抜け、生き残ったらその後はどうなったと考えられるでしょうか。

 

袁紹と曹操

 

当時、曹操(そうそう)は「官渡(かんと)の戦い」で袁紹と対峙していました。その時孫策は曹操の本拠地「許都(きょと)」を奇襲する計画を建てていました。

 

郭嘉

 

曹操の側近「郭嘉(かくか)」は「孫策は恨みを買っていたから、無事ではないだろう」と曹操を説得し、袁紹に集中させましたが、もし孫策が生きていたら郭嘉の予言は外れ、孫策は「許都」を急襲するでしょう。

 

曹操にコテンパにされる袁紹

 

史実だと曹操は袁紹を破り、そのまま袁家も滅ぼします。が、孫策に許都を襲われた場合、そちらにも兵を取られ、袁紹には勝つでしょうが相当苦戦したと考えられます。

 

亡くなる袁紹

 

その為、袁紹は死ぬものの、袁家の勢力はある程度残り、中原(ちゅうげん)の地はしばらく戦乱が続くでしょう。

 

後継者を決めるのに困っている劉表

 

孫策は曹操の牽制に成功し、劉表(りゅうひょう)が支配する「荊州(けいしゅう)」も勢いそのまま奪取したのではないでしょうか。

 

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官渡の戦い特集

 

 

優秀な人材を得て曹操を破る孫策

魏王に就任する曹操

 

孫策が劉表を破り荊州を手に入れたころ、曹操はようやく袁家を滅ぼすことに成功します。そして雌雄を決するために南下を開始します。

 

三国志の主人公の劉備

 

その時荊州には優秀な「劉備」の軍がいました。

 

諸葛亮孔明の天下三分の計に感化される劉備

 

孫策は劉備を警戒し、周囲の反対を押し切り彼を殺してしまいますが、「諸葛亮(しょかつりょう)」という人材を手に入れることに成功します。

 

諸葛瑾

 

諸葛亮は主を殺した孫策の下で働くことを嫌がりますが、孫策には諸葛亮の兄、「諸葛僅(しょかつきん)」がいました。諸葛僅は諸葛亮を3度訪ね、延々と説得し、孫策の配下にすることに成功したのです。

 

赤壁の戦いで敗北する曹操

 

ここに孫策の下には「周瑜」「諸葛亮」といった優秀な人材が集い、彼らの力を得て「赤壁(せきへき)の戦い」にて曹操を破り、曹操の南下を防ぎます。

 

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赤壁の戦い

 

 

天下二分される

曹操を追い詰めた馬超

 

周瑜はその後、劉璋(りゅうしょう)が支配する「益州」を獲り、当時「間中」地方に勢力を持っていた「馬超(ばちょう)」と曹操を挟撃する計画を建てていました。

 

亡くなる周瑜

 

計画の最中に周瑜は亡くなりますが、孫策はその遺志を引き継ぎ、馬超が曹操を引き付けている間に、あっという間に劉璋を降伏させ、益州を手に入れます。こうして孫策は中国南部、曹操は中原を支配し、天下は二分されるのです。

 

曹操

 

曹操の「」は「北朝」、孫策の呉は「南朝」と言われ、「三国志」・・・ではなく、「南北朝時代」がスタートします。

 

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馬超特集

 

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みうらひろし

みうらひろし

歴史が好きになったきっかけはテレビの再放送で観た人形劇の三国志でした。そこから歴史、時代小説にはまり現在に至ります。日本史ももちろん好きですよ。推しの小説家は伊東潤さんと北方謙三さん。 好きな歴史人物: 呂蒙、鄧艾、長宗我部盛親 何か一言: 中国で三国志グッツを買おうとしたら「これは日本人しか買わないよ!」と(日本語で)言われたのが思い出です。

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