曹操・曹丕に仕えた武将・張遼。合肥の戦いの圧倒的な活躍から、魏軍最強の呼び声も高い張遼ですが、魏を悪役とする『三国志演義』ではどうしても存在感が薄くなってしまいがちです。
しかし、『三国志演義』が書かれるよりも前の時代、張遼はどのように評価されていたのでしょうか。今回はそんな張遼の評価について迫っていきたいと思います。
魏の時代の評価
張遼は元々呂布と同じ并州出身の武将であり、丁原・董卓・呂布と主を転々としたのち、呂布が曹操に敗れると曹操に仕えることになります。そして、曹操のもとで張遼はその武名を一気に高めることになります。
張遼は曹操の家臣として、呉との前線地帯である合肥を守り、わずかな兵で合肥に攻め寄せる呉の大軍を破った合肥の戦いはあまりにも有名です。その後、曹操の死後には曹丕に仕え、二代にわたって魏の重臣として大きな功績を挙げました。
張遼の武勇は、張遼の死後間もない時期には既に高く評価されていました。243年(正始4年)に魏の皇帝・曹芳が、先祖である曹操の廟に建国の功臣たちを祀ったことがありました。この時、張遼も功臣の一人として祀られています。
他に祀られたのは、夏侯淵や曹洪、典韋、楽進、李典といったそうそうたる面々です。その中に張遼が含まれているということは、魏の人々から張遼は建国を支えた伝説的な武将としてあがめられていたことを示すのではないでしょうか。
唐の時代の評価:武廟六十四将
三国時代から数百年後の唐の時代、皇帝たちはしばしば、かつての名将たちを祀る廟を建立しました。唐の皇帝・粛宗は古の伝説的な軍師である太公望に武成王の称号を与えて祀り、これに次ぐ過去の名将たちを武廟十哲として合祀しました。
そして、782年(建中3年)には忠臣として名高い顔真卿の献策により、唐の皇帝・徳宗が古今東西の名将六十四名を選出し、武廟十哲とともに祀りました。
そこで、各時代・各王朝を代表する名将中の名将たちが選抜されました。このうち、三国時代からは8名が選ばれました。
その顔触れは、蜀の関羽・張飛、呉の周瑜・呂蒙・陸遜・陸抗、そして魏の鄧艾と張遼でした。つまり、張遼が並み居る魏の名将・猛将・智将たちを押さえて武廟六十四将に選ばれるという栄誉を手にしているのです。これはやはり、唐の時代においても張遼という武将が特に高い評価を受けていたことを示すものではないでしょうか。
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「張遼止啼」:泣く子も黙る張遼
先程登場した「武廟六十四将」ですが、これは唐の皇帝が選ばせたもので、いわば政府公式の顕彰と言えます。では一方で、民間では張遼はどのように評価されていたのでしょうか。それを示す史料の一つが、唐の時代に書かれたとされる『蒙求』です。
『蒙求』は、8世紀頃に李瀚なる人物が著したとされていますが、詳しいことは分かっていません。この作品は、古今東西の故事や歴史を四字句で書き連ねていくという特殊な形の作品です。
『蒙求』はわずか596句2384字という短い作品ですが、漢文と故事・歴史を同時に学ぶことができるとして、中国のみならず、日本の平安時代においても貴族の子供向けの教材として長い間用いられてきました。
そんな『蒙求』には多くの故事成語が収録されています。例えば、「蛍雪の功」や夏目漱石のペンネームの下となった「石に漱ぎ流れに枕す」といった有名な成語などが『蒙求』にことがわかりますね。見られます。
『蒙求』の中には、「張遼止啼」というフレーズがあります。これは文字通り、張遼が子供の泣くのを泣き止ませるということです。
これは、合肥の戦いで鬼神のごとき大暴れをした張遼を呉の人々が恐れ、呉では泣き止まない赤子に「遼来遼来」(張遼が来るぞ)と呼びかけると、泣く子も泣き止んだという故事から来ています。
ここから、威力や勢力のあることの例えである「泣く子も黙る」ということわざができたと言われています。つまり、張遼の強さは非常に有名で、庶民のことわざになるほどよく知られていたのですね。
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三国志ライター Alst49の独り言
いかがだったでしょうか。明代に『三国志演義』が書かれて以降、魏の武将たちは悪役とされることが多く、張遼もそのあおりを受けて存在感が薄くなってしまっている印象があります。しかし、『三国志演義』以前の伝承などを見ると、張遼という人物が三国時代屈指の名将として人々から親しまれていたことがわかりますね。
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