
※こちらの記事は「大戦乱!!三国志バトル」専用オリジナルコンテンツです。
三国志は、前半と後半に分れます、前半は曹操(そうそう)、劉備(りゅうび)のような群雄が活躍し、
後半は諸葛亮孔明(しょかつ・りょう・こうめい)、司馬懿(しばい)、
姜維(きょうい)のような野望を受け継ぐ人々が活躍します。
その前半の最期を飾るのが、関羽(かんう)の死から夷陵の戦いまでの4年間で、
この期間で、関羽、張飛(ちょうひ)、劉備、曹操が相次いで死去していくのです。
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この記事の目次
関羽の死の遠因は赤壁の戦いに遡る
関羽が戦死したのは、西暦219年ですが、その死の原因はそれを遡る事、
11年前の赤壁の戦いにありました。
この戦いでは、呉の周瑜(しゅうゆ)が大活躍し、曹操の勢力を
荊州の北部まで押しやります。
しかし、周瑜と曹仁(そうじん)との戦いで火事場泥棒的に領地を得たのは劉備でした。
孫権(そんけん)からすれば、曹操を撃退し、その隙を突いて荊州を手に入れようという
プランだったのに、美味しい所は全て劉備に持っていかれた形です。
孫権「赤壁の戦いは、ほとんど我が呉の手柄だ!
荊州南郡だって周瑜が曹仁を追い払って手に入れたのだ
そもそもが、呉のものではないか!」
孫権はブリブリ怒って、返せの一点張りですが、
劉備だって、やっと手に入れた本拠地を手放したくありません。
ここを手放せば、また放浪の傭兵隊長に逆戻りです。
「申し訳ないが、南郡を追われては我々も生きていけません。
もうじき、益州を取りますから、その後に返還しましょう」
魯粛(ろしゅく)も、劉備との関係を壊すべきではないと進言したので、
孫権は渋々、益州を手にいれるまでという期限付きで劉備の南郡領有を認めました。
劉備は益州を手にいれるが、知らんぷりで孫権が激怒
さて、劉備は西暦212年、劉璋(りゅうしょう)の配下の張松(ちょうしょう)や
法正(ほうせい)の手引きで、漢中の張魯(ちょうろ)討伐を名目に益州に入り
二年という歳月を費やして益州を平定します。
ここでは、関羽は益州攻略戦には出撃せず荊州の守備の責任者となり、
北と南に睨みを効かせる存在になります。
こうして劉備は、一国一城の主になるのですが、孫権がいくら待っても
いつまで経っても荊州南郡は返ってきませんでした。
怒った孫権は成都に諸葛瑾(しょかつ・きん)を派遣して劉備に催促させますが
劉備はまるで他人事というような顔をして
「益州の安定には、上の涼州を平定しないといけませんので、
それまでは、待っていただけませんか?」と言う始末です。
孫権「おのれ、沓(くつ)売りめ!さては約束を守る気はなかったのだな!
ならば、腕づくで奪い取るまでだ」
孫権は怒り狂い、呂蒙(りょもう)に軍を与えて、長沙、桂陽、零陵の三郡を襲撃します。
これを受けて留守を預かる関羽が3万の兵で出陣して益陽に布陣し、
劉備も関羽を援護するべく公安まで大軍を擁してやってきます。
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魯粛が劉備と孫権を仲介し、危機を脱する
こうして、荊州南郡を巡り、劉備と孫権の睨みあいが続きますが、
途中、曹操が漢中の張魯を攻めているという情報が入ります。
劉備は、益州を守らねばならず、睨みあいをしている場合ではなくなります。
ところが一方で、呂蒙が抑えた長沙や揚州の廬陵では関羽に呼応した
反乱が起こり、呉も戦争どころでは無くなってきました。
ここで、呉蜀同盟論者の魯粛が登場、関羽と話し合いをし、
長沙、江夏、桂陽は呉の領地、南郡、武陵、そして零陵は蜀の領地とする事で
和解が成立し、何とか、呉蜀、衝突の危機は回避されます。
劉備と孫権で、南郡を分けあう形でしたが、どちらも荊州に足がかりを
得られた事で一応、面子が保たれたのです。
魯粛が死に、強硬派の呂蒙が呉の司令官になる・・
ところが、呉と蜀の緩衝材として活躍した魯粛は、217年に死去します。
そして、呉の総司令官になったのは、あの呂蒙でした。
彼は、荊州南郡の領有を諦めていませんでしたが、関羽の統治は完璧で、
全く隙がないので、なんとも出来ず、表面上は友好的に振る舞いました。
孫権は、関羽との友好を深めようと、自分の息子と関羽の娘の婚姻を
持ちかけますが、関羽はこれを、あっさり拒否します。
孫権は気を悪くし、今度は魏に向かって接近する事になりました。
この事は、関羽にとって、大きな失策になります。
樊城の戦い、関羽、中原を揺るがす!
西暦218年、宛で侯音(こうおん)という人物が曹操に叛き関羽と結びます。
それを知った曹仁は、すぐに南下して宛を攻略して侯音を処分しますが、
関羽は構わず水陸両軍を率いて北上し、樊(はん)城に籠った曹仁を包囲しました。
曹操は于禁(うきん)の七軍を派遣しますが、折からの長雨で漢水が氾濫して
船をもたない于禁の軍は水没、于禁は捕虜となり龐トクは斬首されました。
関羽は、さらに襄陽も包囲し、各地の反乱勢力に印綬をばら撒いて、
曹操への謀反を呼び掛けます。
鄴においては丞相掾(じょう)の魏諷(ぎふう)までが謀反を起こし、
鎮圧はされましたが、曹操は狼狽して、一時は遷都まで考えました。
司馬懿、蒋済が呉に関羽を挟撃するように誘う
しかし、司馬懿(しばい)、蒋済(しょうせい)は、これを押し留めて、
呉の孫権と結んで関羽を背後から攻撃させれば良いと進言します。
曹操は策を採用し、孫権に長江以南を与える事を条件に同盟を締結。
さらに、樊城には、徐晃(じょこう)を援軍に派遣しました。
こうして、何も知らない関羽は、魏と呉により上下から包囲されます。
呂蒙は関羽を油断させるべく、病気と称して荊州を去り、
代わりに無名の陸遜(りくそん)を派遣します。
陸遜は関羽を油断させる為に、関羽を讃えて自身が謙(へりくだ)る手紙を送ります。
関羽はそれを読んで陸遜を侮り、江陵、公安に残していた自軍を引き抜いて、
樊城に送ってしまいました。
陸遜と呂蒙、縻芳と士仁を寝返らせる
それを見た孫権は、呂蒙と陸遜に関羽攻撃を命じます。
呂蒙は、南郡の縻芳(びほう)と公安の士仁(しじん)が関羽と仲が悪い事を知り、
手紙を送り寝返りを呼びかけます。
二人はあっさりと寝返り応じ、関羽は根拠地、零陵と公安を失います。
その頃、関羽は樊城の包囲を続けていましたが、城は全く落ちませんでした。
さらに、徐晃より、魏と呉が同盟を結び関羽は挟撃されている事が城内に知らされ、
城内の士気は益々高まり、補給が乏しくなった関羽は樊城の包囲を解きます。
そこで、関羽に自軍の補給部隊が呉軍に襲われているという知らせが届きます。
関羽は驚き、襄陽の包囲も解いて呂蒙に真偽を確認する使者を派遣しました。
すると呂蒙は、関羽の使者に、すでに零陵と公安は陥落し、
捕虜と家族は呉が手厚く面倒を見ていると告げました。
使者は、関羽の陣に戻ると、すでに江陵、公安が落ちている事と、
家族が呉によって保護されている事を兵士達に伝えます。
関羽は、デタラメであると噂を否定しますが、兵士達の士気の低下は止まらず
毎日のように兵が脱走していきます。
関羽、逃亡するも捕まり、臨沮で斬首される・・
関羽は僅かな手勢を引き連れて当陽まで来ると、孫権が江陵に迫っている事を知り
西の麦(ばく)城に拠ります、そこへ孫権が降伏を勧告してきたので、
関羽は応じるフリをして夜陰に紛れて逃亡しますが、臨沮(りんそ)で捕えられ、
息子の関平(かんぺい)と共に斬首されました。
このようにして、荊州南郡は、完全に呉の手中に入る事になります。
孫権は、劉備の恨みが自分に向かう事を恐れ、関羽の首を曹操に送ります。
その前後、西暦220年、曹操も65歳の波乱の生涯を閉じました。
三国志の前半で、物語を引っ張った群雄が次々と死んでいきます。
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劉備、関羽の弔い合戦を行う決意を固める
関羽の死が劉備に伝えられると、劉備は激怒します。
しかし、同じ頃、曹操が死に、曹丕(そうひ)が後継者となり後漢王朝を滅ぼして
魏を建国したので、劉備は後漢を継ぐとして、皇帝に即位して蜀漢を建国します。
ですが、皇帝の位に就いた劉備をさらなる悲劇が襲いました。
関羽の弔い合戦の準備をしていた張飛(ちょうひ)が日頃虐待していた部下に叛かれ
寝首を斬られてしまったのです。
しかも、張飛を殺した、張達(ちょうたつ)と范彊(はんきょう)は
呉に投降していました。
三兄弟の二人までも失った劉備の怒りと悲しみは深く、孔明(こうめい)や
趙雲(ちょううん)が諌めても全く意見を聞かず、孫権が諸葛瑾を派遣して、
寝返った張達と范彊を捕まえて渡し、和睦を請うても、劉備は険しい表情で
「今更、何を詫びる?首を洗って待っていろと孫権に伝えよ!」
と言うばかりでした。
孫権は劉備の報復を恐れ、再び、曹丕に接近して同盟を結び蜀と敵対します。
劉備、自ら親征、破竹の快進撃を続ける
西暦221年の7月、劉備は自ら軍を帥いて四万の兵で討伐軍を編成します。
そして、長江を遡り、呉将の陸議(りくぎ)、李異(りい)、劉阿(りゅうあ)が
巫(ふ)城、秭帰(しき)城に駐屯しているのを襲撃、蜀将、呉班(ごはん)、
馮習(ふうしゅう)が両城を撃破し陸議、李異、劉阿は退却しました。
蜀軍は秭帰城に駐屯し、厳しい冬をやり過ごす事にします。
孫権は、破竹の進撃を続ける劉備に対して、いまだ大きな功績がない陸遜を当てます。
しかし、陸遜は作戦らしい作戦を見せず、少しの部隊を劉備にぶつけては、
退却させるという逐次、戦力投入を繰り返し配下の将は不満を募らせました。
年が明けると、劉備は、秭帰城から出撃し呉班と陳式(ちんしき)らに
水軍を指揮させ夷陵へ先行、劉備は陸上から進軍し気候が温暖になると、
さらに東へ前線を拡大させます。
劉備は馬良(ばりょう)を武陵に送り込み、異民族の武陵蛮の沙摩柯(しゃまか)を
扇動して、各地で掠奪を行わせ、陸遜の後方を攪乱します。
鎮北将軍の黄権(こうけん)は、あまりにも蜀軍が深入りし過ぎていると考え
劉備を後方へ下げ自身が前線を指揮すると進言しますが、関羽の仇討ちに燃え、
自ら孫権の首を斬ると息巻いている劉備は聞かず、黄権を長江の北岸に留めると、
全軍で長江を渡って水軍を引き上げさせ、孫恒(そんかん)が守る夷道城を包囲します。
陸遜、孫恒に援軍を出さず、呉将が猛反発
潘璋(はんしょう)、宋謙(そうけん)、韓当(かんとう)、徐盛(じょせい)、
鮮于丹(せんうたん)というような呉の将達は、陸遜に対して、
孫恒を救うように進言しますが、陸遜は孫恒なら持ちこたえると断言、
全く援軍を出しませんでした。
元々、陸遜を侮っていた彼等は、この決定に猛反発、
「陸伯言は脳無しだ!もう呉はおしまいだ」と叫んで命令に叛くようになります。
陸遜は、それでも孫権に救援を求めず、譲り受けた孫権の剣を抜いて、
「私の命令は殿の命令、逆らう者は斬る」と声を荒げてようやく
諸将を抑える事が出来ました。
我慢し続けていた陸遜ですが、ようやく、進撃に進撃を続けていた
蜀軍に息切れの様子が見られます。
桃園三兄弟の別れ 関羽の死から夷陵の戦いまでを辿る
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