「孫策」と言えば、「江東の小覇王」として江東の地に勢力をあっという間に拡大し、後の王朝「呉」の基礎を築いた人物ですね。しかし、若くして暗殺されてしまい、弟の孫権が跡を継ぐことになるのです。
そんな孫策がもし、暗殺されていなかったら、その後の「三国志」はどうなっていたのでしょうか? 今回の記事では妄想してみましょう。先ずは孫策の生涯から見てみます。
この記事の目次
孫堅の息子として生まれ、周瑜と出会う
孫策は反董卓連合軍に参加していた「孫堅」の息子として西暦175年に生まれました。父は転戦のため留守がちで、母と弟たちと暮らしていましたが、10代のころから孫策の名声はとどろいていました。
その名声を聞き、名家出身の「周瑜」が孫策の下を訪ねます。ここで二人は意気投合、家族同然の付き合いとなり、周瑜は孫策の勢力拡大に大いに貢献することになります。
そんな時に父孫堅が戦死、孫策は当時勢力を拡大していた「袁術」の傘下に入ることになります。
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江東の地に名を轟かせるが・・・
袁術の下で孫策は戦功を重ねますが、袁術はそれに報いることはせず、孫策は不満を募らせます。
そんな時に袁術は「揚州」を支配していた「劉繇」と戦いを始め、孫策はそんな劉繇を戦で破り、そこで基盤を築き、袁術からの独立を模索します。孫策は更に「呉郡」「会稽郡」を手に入れ、袁術から独立し、「江東の小覇王」として勢力を拡大します。
しかし、勢力拡大の過程で多くの恨みを買っていた孫策はかつて処刑した者の配下に襲われ、25か26歳にして死んでしまいます。その後は弟の「孫権」が跡を継ぎ、「呉」を建国することになるのです。
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もし孫策が暗殺されなかったら?
ここからは妄想になります。もし孫策が刺客の暗殺を切り抜け、生き残ったらその後はどうなったと考えられるでしょうか。
当時、曹操は「官渡の戦い」で袁紹と対峙していました。その時孫策は曹操の本拠地「許都」を奇襲する計画を建てていました。
曹操の側近「郭嘉」は「孫策は恨みを買っていたから、無事ではないだろう」と曹操を説得し、袁紹に集中させましたが、もし孫策が生きていたら郭嘉の予言は外れ、孫策は「許都」を急襲するでしょう。
史実だと曹操は袁紹を破り、そのまま袁家も滅ぼします。が、孫策に許都を襲われた場合、そちらにも兵を取られ、袁紹には勝つでしょうが相当苦戦したと考えられます。
その為、袁紹は死ぬものの、袁家の勢力はある程度残り、中原の地はしばらく戦乱が続くでしょう。
孫策は曹操の牽制に成功し、劉表が支配する「荊州」も勢いそのまま奪取したのではないでしょうか。
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優秀な人材を得て曹操を破る孫策
孫策が劉表を破り荊州を手に入れたころ、曹操はようやく袁家を滅ぼすことに成功します。そして雌雄を決するために南下を開始します。
その時荊州には優秀な「劉備」の軍がいました。
孫策は劉備を警戒し、周囲の反対を押し切り彼を殺してしまいますが、「諸葛亮」という人材を手に入れることに成功します。
諸葛亮は主を殺した孫策の下で働くことを嫌がりますが、孫策には諸葛亮の兄、「諸葛僅」がいました。諸葛僅は諸葛亮を3度訪ね、延々と説得し、孫策の配下にすることに成功したのです。
ここに孫策の下には「周瑜」「諸葛亮」といった優秀な人材が集い、彼らの力を得て「赤壁の戦い」にて曹操を破り、曹操の南下を防ぎます。
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天下二分される
周瑜はその後、劉璋が支配する「益州」を獲り、当時「間中」地方に勢力を持っていた「馬超」と曹操を挟撃する計画を建てていました。
計画の最中に周瑜は亡くなりますが、孫策はその遺志を引き継ぎ、馬超が曹操を引き付けている間に、あっという間に劉璋を降伏させ、益州を手に入れます。こうして孫策は中国南部、曹操は中原を支配し、天下は二分されるのです。
曹操の「魏」は「北朝」、孫策の呉は「南朝」と言われ、「三国志」・・・ではなく、「南北朝時代」がスタートします。
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