「正史三国志」の著者・陳寿をして「超世の傑」とまで言わしめた英傑・曹操。「三国志」において異彩を放つ豪傑である曹操には、彼の覇業を陰で支えた人々がいました。
今回はそんな人物たちの中でも代表的な三人である荀彧・郭嘉・夏侯淵について見ていきたいと思います。
曹操の腹心、荀彧
荀彧は豫州潁川郡の人であり、先祖は有名な思想家の荀子につながる名家の出身です。彼の出身地であった潁川郡は「三国志」の時代に活躍した人材の宝庫とも言われる地域でありました。
後漢末の動乱において、潁川出身の人士の多くは同じく名士出身の袁紹に仕えましたが、荀彧は袁紹の器の小ささに失望し、宦官の家系という卑しい家柄ながらも才能では卓越していた曹操への仕官という道を選びます。
曹操に仕えた荀彧は、文字通り曹操の腹心として際立った働きを見せます。荀彧は「王佐の才」と謳われたその才能をいかんなく発揮しました。
荀彧はもちろん軍略の才にも優れていましたが、荀彧の最も優れた才能とは間違いなく人材を見抜く力でした。潁川の名士出身であり、若いころから名士たちと交わっていた荀彧には、いつしか人の素質を見抜く才能が備わっていたのです。
荀彧は曹操に数多くの人材を推挙しましたが、荀彧が推薦した人材はそのほとんどが有能であり、曹操陣営、そして曹操死後に建国された魏王朝の柱石となる人々ばかりでした。
荀彧が推挙したことで知られる人材としては、代表的な者だけで荀攸・鍾繇・戯志才・郭嘉・陳羣・司馬懿・華歆・王朗が挙げられます。いずれも「三国志」のビッグネームばかりであり、彼らがいなければ曹操やその後の魏王朝があれほどの強勢を誇ることはなかったといっても過言ではないでしょう。
こうしてみると、優れた人材を数多く曹操に推挙した荀彧は、やはり曹操陣営に最大の貢献をした功労者といっていいでしょう。
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曹操の愛した最高の軍師、郭嘉
曹操は才能のある人物を愛した人物として知られていますが、曹操が特に目をかけていた人物こそが郭嘉でした。郭嘉は、「人材の宝庫」である豫州潁川郡出身であり、先述の荀彧とは同郷でした。そのような郭嘉が曹操の配下となったのは、荀彧の推挙があってのことでした。
曹操の配下となった荀彧は、同郷の潁川出身者をはじめとして多くの人物を曹操に推挙しましたが、その中でも才気あふれる人物として戯志才という人物を推挙しました。戯志才は才気煥発で、軍師として曹操に気に入られたものの、若くして亡くなります。
その後、荀彧が彼の代わりに推挙したのが郭嘉でした。戯志才の代わりに曹操の軍師となった郭嘉は曹操の覇業を補佐していくこととなり、曹操のピンチを救っていくことになります。
例えば、曹操と呂布が戦った時、曹操は呂布の籠る下邳を攻めあぐねますが、郭嘉は下邳城を水攻めにするという策を立て、曹操の勝利に貢献しています。
また、官渡の戦いの際には、揚州の孫策が北上することを恐れた曹操に対し、「孫策は江東の名士たちを粛清して恨みを買っており、必ず取るに足りない者たちに命を奪われるでしょう」と助言していますが、まさに孫策はこの通りとなり、自らが殺した許貢の部下に襲われ、この時の傷が元で死んでしまいます。
このように、郭嘉は軍略と洞察力に特に優れており、その才能は曹操にも特に評価されていました。このことは、曹操は荀彧・荀攸・程昱をはじめとして数多くの軍師を抱えていましたが、その責任者ともいえる軍師祭酒には郭嘉を任命していることからも明らかです。
しかし残念ながら、郭嘉は若くして病に倒れ、38歳の若さで死去します。時に207年(建安12年)、曹操の覇道が今にも成らんとするところでした。
翌208年(建安13年)、赤壁の戦いで敗れた曹操は、「奉孝(郭嘉)がいればこのようにならなかった」と嘆いています。このように、郭嘉という存在は曹操にとってかけがえのない人物だったのです。
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兵站を支えた名将、夏侯淵
最後に登場するのは夏侯淵です。曹操の父である曹嵩は夏侯氏の出身であり、夏侯淵は曹操とは親戚関係にありました。曹操と血縁関係にある夏侯淵は、従弟の夏侯惇とともに曹操の旗揚げ当時からつき従い、曹操に忠誠を尽くしてきました。夏侯淵は曹操に絶対的な忠誠を誓っており、時には罪に問われた曹操の身代わりとして官憲に出頭するほどでした。
その後、曹操が群雄の一人となると、武勇の点では夏侯惇らに劣る夏侯淵は主に物資や食糧、つまり兵站の分野で曹操陣営を支えるようになりました。
兵站を支える役目というのは、華々しい手柄を挙げる前線の将兵たちと比べて地味ですが、
「腹が減っては戦はできぬ」のことわざ通り、兵站は戦争の遂行において不可欠な存在です。曹操軍が華々しい活躍を見せていた背景には、夏侯淵の働きがあったと言えるのでしょう。
その後、曹操が涼州の馬超を破ると、夏侯淵は馬超の本拠地であった涼州を統治する役目を曹操から与えられます。涼州は曹操が馬超を破った後も現地民の反乱が相次ぐ不安定な土地でしたが、夏侯淵は曹操の期待に見事に応え、各地の反乱を鎮圧して涼州をまとめ上げることに成功します。
しかし、そんな夏侯淵も最期の時がやってきます。益州を制圧した劉備が北上して漢中を攻めた際、夏侯淵は劉備軍の猛攻を防ぎつづけます。夏侯淵の部下には張郃・徐晃ら名将が揃っており、しばらくは劉備軍の攻撃を防いでいましたが、曹操の本拠地である許昌から遠い漢中にはほとんど援軍が来ず、夏侯淵は追い詰められていき、
最終的には定軍山の本営を劉備軍の黄忠に攻められ、白兵戦が苦手であったにもかかわらず、夏侯淵は前線に出ざるを得ず、最期は壮絶な戦死を遂げました。
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三国志ライター Alst49の独り言
いかがだったでしょうか。いかに曹操が天才とはいえ、一人で天下の大半を手中にできたわけではありません。曹操が一代にして覇業を成し遂げられた背景には、その配下に有能な人材たちが数多くいたからです。そのような人材に恵まれた曹操は、やはり非凡な人間的魅力を持った人物だったということだったのでしょうか。
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