黄権(こうけん)を皆さんは知っていますでしょうか。
知っている人はかなりの三国志マニアですね。
たぶんほとんどの人が知らないと思います。
蜀を深く知っていただくため、マイナーな武将ですが、
劉備(りゅうび)と固い絆で結ばれた黄権を紹介していきたいと思います。
この記事の目次
劉備の軍勢に徹底的に抗う
黄権は益州の劉璋(りゅうしょう)に仕えておりました。
劉璋は漢中の張魯(ちょうろ)の勢力が日増しに増強されることに不安を感じており家臣たちに意見を求めました。
劉璋の謀臣である張松(ちょうしょう)は、「張魯を討伐するため、荊州の劉備に協力を仰ぐべし」と献策します。
張松の献策に反対する黄権
黄権はこの献策に反対し「劉備を益州に呼び寄せ、一武将として扱ったら、彼は非常に不満を持つでしょう。
また客として劉備を向かい入れたら、益州に二人の君主が居る事になり、益州の政治に支障をきたすことになりましょう」と進言します。
しかし劉璋は、黄権の反対を無視して、張松を劉備の元へ派遣し、彼を益州に向かい入れることになります。
しかし劉備は、張魯討伐へ向かわずに、益州攻略を開始します。
益州の諸郡は、劉備軍の攻撃によって次々に降伏していきます。
黄権は、広漢郡を守備しておりましたが、劉備に降伏する事無く、城の防備を厚くし、劉備軍の攻撃を防ぎ続けます。
しかし、劉璋が劉備に降伏してしまったため、黄権は武器を捨て降伏します。
劉備は、最後まで徹底抗戦をした黄権を偏将軍に任命し、厚遇します。
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漢中攻略の策を劉備に献策
黄権は、漢中の張魯が曹操(そうそう)に敗北したとの情報を受けます。
この報告を受け取り、すぐさま劉備に
「益州の出入り口である漢中を失うことは、益州の危機につながります。」と進言します。
劉備は、すぐさま黄権に軍勢を与えて、張魯の救援に向かわせますが、すでに張魯は曹操に降伏した後でした。
黄権は間に合わず、迎撃に出てきた曹操軍を蹴散らし、益州に帰還します。
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定軍山の戦いでも大活躍
劉備はその後、漢中攻略するため出陣し、
定軍山の戦いでは夏侯淵(かこうえん)を撃破し、漢中の地を攻略することに成功するのです。
定軍山の戦いは、法正(ほうせい)が作戦を立てた戦いだと思われている読者が多いと思います。
実は黄権が、漢中攻略の基本作戦を立てて、
現場の軍師であった法正が黄権の策にアレンジを加えた形になっております。
黄権は、漢中の戦いで作戦を立案した功績により、劉備が漢中王になった際、
益州の治中従事(益州牧である劉備の補佐官的な役割)に任命され、劉備を支えていきます。
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黄権の運命を分けた夷陵の戦い
劉備は、関羽(かんう)が呉軍により討ち取られた事を聞きき、呉を討伐すべく出陣します。
黄権は劉備から水軍の指揮を任されます。
黄権は出陣前夜、劉備に「長江の流れに乗れば、荊州までたやすく攻めることができます。
しかし退却時は、長江の流れに逆らわなくてはならないため、難しくなります。
そのため私を先陣としてお使いいただき、陛下(劉備はこの時皇帝であるため)は
私の後から進軍していただけないでしょうか。」と進言します。
しかし劉備はこの進言を退け、彼を鎮北将軍に任命し、魏の備えとして、江北に駐屯させます。
しかし劉備は夷陵の戦いで、陸遜(りくそん)率いる呉軍に敗北してしまいます。
黄権は呉軍に退路を断たれ、絶望的な状況に追い詰められてしまいます。
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黄権は魏に降ることを決断
黄権は悩みに悩んだ結果、部下を無駄死にさせないため、魏に降伏することを決めます。
魏の皇帝・曹丕(そうひ)は、黄権を魏の首都である洛陽に呼び寄せます。
黄権は洛陽に着き、曹丕から「君は蜀を捨てて、魏に降った。
陳平(ちんぺい)や韓信(かんしん)(劉邦の家臣)をまねたのか」と質問されます。
黄権はこの質問に対して「私は劉備様から多大な恩恵を受けておりました。
魏に降ったのは私の部下を助けるためです。陳平や韓信の真似をしたわけではありません」と正直に答えます。
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曹丕や司馬懿にも評価された黄権
曹丕はこの答えに満足し、彼を鎮南将軍に任命し、厚遇されます。
黄権は司馬懿(しばい)からの評価も高く、「快男児」と褒めたそうです。
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三国志ライター黒田廉の独り言
黄権は劉備から絶大な信頼を得ていたそうです。
今回は二人の信頼の厚さを現したエピソードが残っているのでご紹介したいと思います。
夷陵の戦いで敗北した後、白帝城へ帰還します。
蜀の臣から「魏に降った黄権の妻子を処罰すべきです。」と進言されます。
劉備は家臣たちに「黄権は私を裏切ったわけではない。我が黄権を裏切ったのである。
彼の妻子を処罰する必要はない」と家臣たちに言い渡し、彼の家族に危害を加えることはありませんでした。
魏では劉備が死んだ際、魏の家臣達は皇帝である曹丕にお祝いの言葉を述べに行きました。
しかし黄権は、曹丕にお祝いの言葉を述べに行くことはありませんでした。
曹丕は黄権が来ていない事を知り、何度も使者を送りますが、
彼はお祝いの言葉を述べに行かなかったと伝えられております。
今回のお話はこれでおしまいにゃ。
次回もまたはじめての三国志でお会いしましょう。
それじゃあまたにゃ~♪
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