慣用句に力量が同等で甲乙付け難い事を「実力伯仲」と言いますよね?
この伯と仲は中国で、長兄と次兄の事を意味しています。
中国人の名前は、字名が兄弟順に決まっていて、一番最初の長兄には、「伯」という漢字をあて、次兄には「仲」を当てます。簡単に紹介しますと長男が「伯」次男は「仲」三男は「淑」末子は「季」というようになっています。つまり、実力伯仲とは、長兄と次兄は、年齢が近いので甲乙付け難いどっちが一番と見極めにくいという意味なのです。
この記事の目次
孫策(そんさく)と孫権(そんけん)の英雄
それは、孫策(そんさく)と孫権(そんけん)二人の英傑にも当てはまりました。孫策(そんさく)は長兄で孫策伯符(そんさく・はくふ)、孫権は次兄で孫権仲謀(そんけん・ちゅうぼう)二人は年齢こそ、6歳違いますが、いづれ劣らぬ英傑として称えられたのです。しかし、孫策(そんさく)には孫権(そんけん)とは違う、崩壊寸前だった孫家を立てなおした陰の功績があります。二人は対立する存在というより、二名いなければ、呉は存在できなかったと言えるのです。
偉大な父・孫堅(そんけん)
さて、事実上の反菫卓(とうたく)連合軍最大の功労者である偉大な父、孫堅(そんけん)は、劉表配下の黄祖を討伐しようとして無謀な戦いを起こし、戦死してしまうという悲劇を招きます、孫策は17歳でした。時に西暦192年、弟孫権(そんけん)は、まだ10歳の少年、、孫家の運命は、弱冠17歳の孫策(そんさく)の肩に背負われます。
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袁術(えんじゅつ)に吸収された孫家
孫堅(そんけん)の死により、孫家の軍勢は、上司である袁術(えんじゅつ)に吸収され、孫策(そんさく)も袁術(えんじゅつ)の部下からの再スタートを余儀なくされます。初陣は、丹陽の一揆の鎮圧でしたが、それでも17歳には荷が重く一揆軍の首領、祖郎(そろう)に敗北、命からがら袁術(えんじゅつ)の下に逃げ帰ります。
孫策(そんさく)は袁術(えんじゅつ)に軍の返却を求める
ですが、それに奮起した孫策(そんさく)は武勇も兵法の腕も磨いていきます。西暦194年、19歳の孫策(そんさく)は上司である袁術(えんじゅつ)に対し、孫堅(そんけん)が持っていた兵力の返還を要求しました。すでにこの頃には、袁術(えんじゅつ)の代理として劉表(りゅうひょう)や袁紹(えんしょう)とも戦い勇猛な将軍の片鱗を見せ始めた孫策(そんさく)を袁術(えんじゅつ)は重宝すると同時に気に入り、たった1000名ではありますが、孫堅(そんけん)の軍勢を孫策(そんさく)に返します。
返却してもらった軍には大物揃い
ところが、この1000名には、後に呉の大黒柱になる多くの武将が含まれていました。朱治(しゅち)黄蓋(こうがい)程普(ていふ)韓当(かんとう)頼もしい武将達が孫策軍の力を強くして行ったのです。孫策(そんさく)は、猜疑心が強く、人をただでコキ使う袁術(えんじゅつ)の力量の小ささに呆れ果てていて、いつでも独立できるように時間を割いては、人材スカウトに余念がありませんでした。
孫策(そんさく)の元に更に人材が集まる
張紘(ちょうこう)張昭(ちょうしょう)といった智謀の士や、蒋欽(しょうきん)凌操(りょうそう)周泰(しゅうたい)陳武(ちんぶ)といった武勇の士も孫策(そんさく)の魅力に引き付けられ、集まっていきます。孫策(そんさく)は父孫堅に似て、短気でカッとしやすい性格ですが、基本的には、おしゃべりを好み、親しみやすい雰囲気があり、また、大変な美男子であったと記録されています。孫策(そんさく)に人材が集まるにつれて、袁術(えんじゅつ)は、ますます孫策(そんさく)への猜疑心を強くしていきます。
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袁術(えんじゅつ)、孫策に対して恐れを抱く
これ以上、袁術(えんじゅつ)の下にいるのは危険だと判断した孫策(そんさく)は、側近の朱治(しゅち)の助言を入れて、袁術(えんじゅつ)と揚州を争っている劉繇(りゅうよう)討伐に参加したいと袁術(えんじゅつ)に申し出ます。しかも、援軍も無しに、孫策(そんさく)配下の1000名の兵だけでやると言います。
「ふん、若僧め、たった千名で劉繇に勝てるつもりか?
まあ良い、、仮に戦死したら始末する手間が省けるというもの、、もし、勝てばこちらは兵力を減らさず揚州を手に出来るし、、どっちに転ぼうがワシには得しかないわい」
袁術(えんじゅつ)は喜んで許可を出します。それは、袁術の勢力下から合法的に抜け出す為の朱治(しゅち)の巧妙な罠でした。こうして孫策(そんさく)はまんまと袁術(えんじゅつ)の下から分離する口実を手にいれます。
周瑜も軍に加わる
たった1000名の孫策(そんさく)軍でしたが、歴陽という土地で思わぬ再会が孫策(そんさく)を待っていました、それは周瑜(しゅうゆ)との再会です。幼馴染だった二人は、意気投合し周瑜(しゅうゆ)は軍に加わる事になります。
周瑜(しゅうゆ)からの補給と応援の兵、そして、孫堅(そんけん)の時代からのツテで続々と兵が集まり、孫策(そんさく)軍は、5000名にまで兵力を増強させていました。
西暦195年、劉繇(りゅうよう)は孫策(そんさく)に敗れて曲阿(きょくあ)に逃亡、、孫策(そんさく)はさらにこれを追討して曲阿からも劉繇(りゅうよう)を追い出して、ここを拠点に据えて、長江から南の江東の攻略に着手します。
孫策(そんさく)、独立に成功
ここに事実上、孫策(そんさく)は袁術(えんじゅつ)の手を離れて独立した君主になる事に成功します。西暦196年、孫策(そんさく)は呉郡の首領である許貢(きょこう)、さらに会稽郡の王朗(おうろう)を攻略、劉繇(りゅうよう)の部下で当時は独立勢力になっていた猛将太史慈(たいしじ)も降伏させて自軍に引きこんで巨大な勢力に成長していきます。
西暦197年、孫策(そんさく)が侮りがたい勢力を持つに至った事を知った袁術(えんじゅつ)は、一族の袁胤(えんいん)を丹陽太守に任命して孫策(そんさく)を牽制しようとします。すると孫策(そんさく)は、兵を送ってこれを撃破してしまいました。
「おのれ、小僧、、孫堅が死んだ時に拾って面倒を見てやった恩も忘れおって所詮、下賤な狂犬の子供は狂犬よ、、どうするか見ておれ!!」
怒った袁術(えんじゅつ)は、一揆軍の勢力を扇動して孫策(そんさく)に立ち向かわせます、それが17歳の頃に孫策(そんさく)に苦杯を嘗めさせた祖郎(そろう)という男ですが、22歳になっていた孫策(そんさく)は、これを簡単に撃破して自分の家来にしてしまいます。
袁術(えんじゅつ)は、すでに皇帝を称して贅沢な暮しを行っている上に、度重なる負け戦と飢饉で兵力がガタ落ちし、これ以上孫策(そんさく)に対抗する力はありませんでした、、
孫策(そんさく)の急激な進撃に寿命を縮める事に
これより4年後の西暦200年、孫策(そんさく)は急激すぎる進撃が対抗勢力の恨みを買い許貢(きょゆう)が放った刺客に襲われ、たった26年の生涯を閉じます。しかし、それまでに崩壊寸前だった孫家の基盤は固まり、それどころか、基盤を引き継いだ孫権(そんけん)により三国の一角、呉の基盤が造られたのです。生涯の殆どを戦場で送った小覇王孫策(そんさく)、、その短くも太い光を放った人生は、やはり格好イイとしか言いようがありません。
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