三国志に登場する群雄の中でも、ひときわ異質な存在、それが袁術です。
袁術は、後漢の名門である袁家の出身でありながら、同じ袁家の袁紹とは仲が悪く、曹操・劉備・袁紹・劉表といった主要な群雄をすべて敵に回したあげく、皇帝を名乗ってしまいます。
今回はそんな袁術について、袁術の皇帝僭称(勝手に名乗ること)を中心に見ていきたいと思います。なお、今回の記事は基本的に正史三国志に基づいています。
袁術の前半生
袁術は後漢の名門である袁家の出身であり、同じく袁家出身の袁紹は従兄であったとも、兄であったとも言われています。袁術の母親は袁紹の母親よりも身分が高かったらしく、袁術はそれを鼻にかけていたのですが、次第に袁紹の評判がよくなり、袁紹が出世を果たすと、袁術は袁紹を憎むようになります。
その後、反董卓連合軍が結成されると、袁術は袁紹と共に連合軍に参加しました。
この時、袁術は孫堅を豫州刺史に擁立しており、袁術は孫堅と協力関係にありました。しかし、袁紹は独自に別の人物を豫州刺史に任命させたため、袁術・孫堅と袁紹は対立を深め、反董卓連合軍は崩壊します。
その後、袁術は荊州南陽郡を拠点としますが、荊州牧の劉表と対立すると、孫堅を用いて劉表を攻めさせるとともに、幽州の公孫瓚と手を組んで袁紹を攻めさせようとします。これに対し、袁紹は曹操・劉表と手を組み、袁紹と袁術の争いは、中国の大部分を巻き込む大きな戦乱へと発展したのです。
結局、袁紹・曹操・劉表に敗れ、孫堅も失った袁術は南陽郡を放棄し、刺史が急死して混乱していた揚州を乗っ取ります。そして、北の徐州をうかがうとともに、孫堅の子である孫策を用いて揚州の平定を進めていました。
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袁術の皇帝僭称への道のり
袁術が皇帝即位を意識し始めたのは、揚州を乗っ取った直後の195年(興平2年)頃でした。この頃、後漢の皇帝である献帝は、董卓の部下である李傕・郭汜らの下を離れますが、その権威は完全に失墜し、皇帝につき従うのは董承らわずかな家臣たちだけでした。
これを見た袁術は、「今、劉氏(後漢の皇室)は弱く、天下は乱れている。我が袁家は四代にわたり公輔(太尉・司徒・司空の三公と太傅・太師・太保・少傅の四輔という高位の官職)を輩出し、民衆の信望は厚く、天に従って民を治めようと思う。」といって帝位に就くことを主張しますが、部下の反対に遭って挫折します。
その後、袁術は改心したのか、後漢の皇帝である献帝を保護し、皇帝を擁して天下に号令しようとしますがあえなく失敗し、献帝の身柄は曹操に握られてしまいました。これで後に引けなくなった袁紹は、ついに197年(建安2年)、国号を「仲」とし、自ら皇帝を自称してしまいます。
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袁紹の皇帝僭称の根拠その1:「伝国の玉璽」
皇帝を名乗るといっても、何の大義名分もなく皇帝を名乗ることはできません。後世につくられた物語である『三国志演義』では、孫堅が偶然洛陽の古井戸で拾った「伝国の玉璽」が、息子の孫策に受け継がれ、孫策は玉璽と引き換えに袁術から兵を借りたため、袁術は玉璽を手に入れ、これを大義名分として皇帝を名乗ったとされています。
しかし、正史三国志を見る限り、「袁術伝」に玉璽の話は出てきません。「孫堅伝」の注には、袁術が孫堅から玉璽を奪ったという記述がありますが、一方で、正史三国志の注釈者として知られる裴松之はこれについて否定的であり、袁術が玉璽を持っていたのかどうかは正直判然としません。
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袁術の皇帝僭称の根拠その2:讖緯
それよりも、袁術の皇帝僭称の決め手となったのは、古代中国でしばしば流行した讖緯思想でしょう。
讖緯とは謎めいた言葉で書かれた「予言」を指し、古代中国ではこうした作者の知れない讖緯が多数出回り、その解釈を巡って様々な議論が行われていました。こうした讖緯は、謎めいた言い回しがされているだけに解釈が難しく、時にはうまくこじつけて讖緯を帝位簒奪の根拠とする者もあらわれました。
例えば、前漢を簒奪して新を建てた王莽は、讖緯を利用して前漢の皇帝から帝位を奪っています。後漢に生まれた袁術も当然この前例を知っていたはずです。
そして、袁術は『春秋讖』なる讖緯書にある「漢に代わる者は当塗高なり」という文言に着目し、袁術の名である「術」、そして字である「公路」は共に「道」を意味し、同じく「道」を意味する「塗」に通じるとこじつけ、自らこそが後漢の皇帝に代わるべきであると主張しました。
ちなみに、袁術の皇帝僭称は失敗しますが、この「当塗高」は後漢末期を通じて有名なフレーズであり、後に本当に後漢から帝位を受け継いだ魏王朝は、「当塗高」が「魏」を指していると主張し、後漢から魏への王朝交代を正当化しています。(「魏」という字には「高い」という意味が含まれているというのが根拠だそうです。)
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袁術のその後
讖緯を利用して皇帝を僭称した袁術ですが、当然各地の群雄たちの支持は得られず、むしろ逆賊として各地の群雄を敵に回してしまいます。その後の袁術は、曹操や劉備に攻められ、最後は失意の中で憤死してしまいました。
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三国志ライター Alst49の独り言
いかがだったでしょうか?
袁術は「皇帝を勝手に名乗ったとんでもない輩」というイメージを持たれがちですが、讖緯を利用して帝位を主張するやり方は、前漢を滅ぼした王莽のほか、後漢に取って代わった魏も実は同じやり方をしているのです。
皇帝の座を狙う者が考えること、やることは大差なく、結局皇帝になれるかどうかはその人物の実力次第ということなのでしょうか。
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