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呉の孫権とは?
西の劉備とうまく関係を保ちつつ、長く政権を維持したのが呉の孫権です。父や兄を早くに亡くしましたが、周瑜や甘寧などのサポートによって孫権は江東の地を掌握します。曹丕が魏で皇帝となったとき、孫権はまだ力もなく、皇帝の配下になることにしました。
そして、魏の皇帝から「呉王」に任命されるという形を取り、魏と友好関係を保ったのです。実はこのとき、西の劉備が荊州の地を虎視眈々と狙っており、孫権は西と北から挟み撃ちされるのを恐れていました。
まずは、北の魏と主従関係になってから、西の劉備を抑えようと考えていたのです。案の定、劉備が攻めてくると弱点をうまく突いて撃退に成功します。こうして西から攻められる心配がなくなった孫権は表向き主従関係だった魏を裏切って、「呉」を建てます。
孫権が「魏」から独立したことで中国には一時期に「3名」の皇帝が存在するという過去に例を見ない事態となりました。皇帝が後継者争いで南朝と北朝に分かれることは多々あります。
しかしながら、三国時代のように違う勢力がそれぞれ中国の皇帝を名乗るという「三者鼎立」は非常にレアな状況と言っていいでしょう。そうしたジャンケンのような状態だったからこそ三国志は1800年近く経った今でも人気を博しているのです。
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とても分かりました。