三国志演義が、史実6:虚構4の物語である事はよく知られています。しかし、正史三国志ですら、その時代の執筆者の都合で真相が捻じ曲げられている、という事に気がつく人は、あまり多くないでしょう。
特に、三国志演義の最大のハイライト呉蜀同盟には胡散臭さが満載されています。今回のはじさんでは、三国志演義はおろか、正史三国志さえ引っ繰り返る、周瑜(しゅうゆ)、魯粛(ろしゅく)、龐統(ほうとう)、孔明(こうめい)、そして劉備(りゅうび)という呉を喰い物にした詐欺師達の話を分かりやすく解説します。
この記事の目次
孫権(そんけん)の頼れる兄貴とは、後世の創作、独立勢力だった周瑜・・
三国志演義では、張昭(ちょうしょう)・張紘(ちょうこう)の二張と並び、孫権が困った時には、頼るべしとされていた周瑜(しゅうゆ)ですが、それは正しくありません。孫策(そんさく)とは、親しく付き合い、断金の交わりを結んだ周瑜ですが、その弟、孫権とは、初期には、ほぼ接点がありませんでした。
西暦200年に、孫策が死んで、孫権が当主になってから、周瑜は一応、喪を発して、呉に進駐して、孫権の国内平定に、協力していますが、自身が積極的に動いた様子は皆無・・孫権にとっては、父の仇である江夏の黄祖(こうそ)を討伐した時でも、黄祖が盧江に派遣した武将、鄧龍(とうりゅう)の兵力数千を自ら撃ち破った位の記述しかありません。
しかも、黄祖討伐では、周瑜は表彰さえされていないのです。これはつまり、周瑜が孫権の勢力下では、干されていたか、、手柄を立てさせて、呉での発言力が大きくなる事を恐れ「もう!いいから、じっとしてて!」と動かさなかったのでしょう。
周瑜が呉の重鎮、程普に辛くあたられたのは他所者だから・・
また、周瑜は、年少であったので年長の呉の重鎮、程普(ていふ)に疎まれ意地悪をされましたが、穏やかな対応をして周囲の尊敬を得たというような記述があります。
これは、年若いのに、心が広い周瑜の徳望を称える記述に見えますが、、そもそも、周瑜が当主の孫権とツーカーの仲なら、重鎮の程普が周瑜に対してそんな扱いをするでしょうか?
ここには、
「前代の当主と親しい程度で、呉でデカイ顔をするなよコラ!」
という孫権の重臣、程普の態度と、それを受けた周瑜の
「滅相もない、そんなつもりは微塵もありません」
というアピールがあり、結果として程普が周瑜の丁重な態度に、強い猜疑心を解いた、、とも考えられるのです。つまり、周瑜と孫権の間には、孫策との間にはあった、麗しい君臣の友情など当初はなく、孫権にとっての周瑜とは、早い話が・・
「兄貴が残してくれた、強いけど、色々煙たいライバル」だったという事になるのです。
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曹操の南下が、居候状態の周瑜の境遇を変化させる
孫策にゾッコン惚れこみ、その手勢の面倒を見た周瑜ですが、孫策の若死で弟の孫権が立つと、一気に軽んじられ、また有能であるが故に、警戒されるようになります。それが顕著に出てくるのは、曹操による呉への降伏勧告に対して、「どう対応しようか?」という呉の進退を決める重要な会議に、当初、周瑜が呼ばれもしないという点でも分かります。
三国志演義でも、魯粛(ろしゅく)や諸葛亮孔明(しょかつ・りょう・こうめい)の頑張りで、孫権の気持ちが、主戦論に傾き、では、周瑜の意見を聴いてから最終決定しようとなりますが・・・
そもそも、孫策が弟の為に就けた重臣の位置に周瑜がいたなら、国の浮沈に関わる重大会議に召集されないわけがありません。
孫権「あ?これは、呉の会議だからよ、他所者は入ってくんな!」
正史では、孫権の周瑜への態度は、このようなもので、上客として迎えていた魯粛(ろしゅく)が、、「開戦となれば周瑜の協力は不可欠ですから意見を聞くべきです」と、孫権に進言して、渋々、招かれたというのが真実なのです。
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周瑜・魯粛、生き残る為に、呉を詐欺る事を決意
招かれた周瑜と魯粛は、古くからの親友でした。三国志演義では、温厚な性格で内政官僚として有能、でも外交では、お人好しで優柔不断が玉にキズ、てへ♪
というドジっ子特性の魯粛ですが、事実の魯粛は、、
「この魯子敬の名を天下に轟かせるには、まだ乱世が必要だ、、曹操ごときに簡単に中華をまとめさせてたまるものか!!」
などという不遜な事を平気で考える、天命なんぞクソ喰らえというアナーキーで、ラディカルで詐欺師的な喰わせ者でした。地元では、名門魯家にアレな人間が産まれたと嘆かれる程で、ある意味では、韓信(かんしん)に独立して、天下を取るように進言した、蒯徹(かいつう)に似ているスケールのデカイ男です。
大地主の魯粛は、周瑜に二つあった米蔵の一つをポンと与えています。それは、周瑜を使える男だと見込んでいたからです。これによって、周瑜は、袁術(えんじゅつ)に仕える所を変心して、魯粛と交友を結び、やがて孫策にくっつくようになります。
魯粛「公瑾、、このまま、曹操が呉侯を説き伏せて天下を統一すれば、歴史家は曹操とその群臣のみを、あたかも後漢の光武帝と雲台二十八将のように賞賛するだろう・・私の名も君の名も歴史には、残るまい・・惜しい事だ、、ここは、何としても、呉侯に曹操に逆らってもらい、曹操の天下統一の業を阻止しなければならぬ・・」
周瑜「子敬、、全く同感だ、、このままでは、私は呉侯に警戒され、一生の飼殺し、その上、曹操に降伏などされてしまえば、、かつて、孫伯苻や、君と共に夢見た中華統一の夢も潰える、、だが、単独で曹操に挑む程の度胸は、呉侯にはあるまい、そこを何とするのか?」
魯粛は、そこでニヤリと笑い、荊州で曹操に追われて右往左往している劉備の名を挙げ、これを抱き込んで上手く使うと打ち明けました。
その頃、劉備は大ピンチに・・
劉備は、この頃、荊州の劉表(りゅうひょう)の世話になっていた事は、三国志演義でも同じですから、よく知られている事でしょう。しかし、内心では猜疑心が強い劉表は劉備が新野城に入ると、見る間に彼を慕う人間が集まるようになったので恐怖心を抱きます。そこで、時々、城を転々とさせつつ、密かに劉備が背かないように、備えを怠りませんでした。
この新野城に居た頃に、曹操の命令で夏候惇(かこう・とん)が劉備を攻めていますが、劉備はわざと負けたフリをして、山間に退却して伏兵し、調子に乗って攻めてきた夏候惇を火計と伏兵のW攻撃で撃退しています。
戦が下手であるとして知られる劉備ですが、それはあくまでも、戦略家としての評価であり、戦術家としての劉備は、後方撹乱、扇動工作、遊撃作戦などゲリラ的な戦術で、度々勝利しています。
特に、官渡の戦いにおいて袁紹(えんしょう)の配下として、曹操の根拠地、徐州、豫州で、後方撹乱部隊として暗躍した頃の戦いぶりは、曹操をノイローゼにする程に強烈なもので、恐らくこの時の恨みから曹操は劉備絶対殺すマンになったとkawausoは確信しています。
※曹操が劉備絶対殺すマンになった切っ掛けは、こちら↓
三国志の徐州争奪戦が何だかややこしい!仁義なき徐州争奪戦を分かりやすく解説
つまり、小部隊で、姑息な攻撃を仕掛ける規模の小さい戦闘では、かなり優秀な野戦指揮官だったのです。
しかし、劉表の死後、劉琮が後継者になった頃には、劉琮派にコネが無かった劉備は、劉琮にハブられていました。そして、劉琮が、蔡帽(さいぼう)一派の勧めに従い、すでに曹操に降伏文書を出していた事さえ、知りませんでした。
劉備、劉琮にハブられ、超びっくりポン!!
ですが、どうも、劉琮が当主になってから荊州の様子がおかしい、第六感が働いた劉備は、家臣を襄陽に使者に出し照会すると、劉琮は、家臣の宋忠(そうちゅう)を派遣してきました。
宋忠「連絡が遅れて申し訳ないが、公は曹操の軍門に降る事を決意なされました、すでに曹操の軍勢は宛に到達しております。悪しからず、ご了承ください」
これを聴いた、劉備は狼狽し、ただただびっくりします。そして、こんな大事な事を、自分に一言もなく決められた事に、猛烈に激怒しました。
劉備「おいっ!おいおいおいおいおいーーーーぃ!!!こんな大事な事を、何を俺抜きで勝手に決めてくれてんだよォ、お前らよォ!もう、こうなりましたから、ご了承くださいだとォ!!!人をなめんのも大概にしろォ!!馬鹿ァ!MAXぶわぁぁかァァ!!!
俺はなぁ!俺わぁ、曹操に追われてんのォ!!(涙声)
絶対殺すマンリストに入ってんのォ!(嗚咽声)
もう降伏しましたって、イキナリ言われても、どうすりゃいいんだよボゲェェ!!
今から、俺に一人怒りのデスロードやれって言ってんのかァァ!!!」
※出典は、正史三国志ではなく、漢魏春秋によります。
怒った劉備は、宋忠の脳天を砕こうとするが、我慢して前後策を練る
すっかり逆上した劉備は、刀を引き寄せると宋忠の脳天を砕こうとしますが、ここで、宋忠を斬っても事態は解決しませんので踏みとどまります。良かった、宋忠、督郵(とくゆう)の二の舞にならないで済んで・・
劉備は、すぐに、部曲、(ぶきょく:劉備が集めた傭兵団)を集めて、どうやって、曹操から逃れるかを相談します。
その中で、今すぐ、兵をまとめて襄陽に急行して劉琮を殺し、荊州を抑えようという人が出ましたが、劉備は、
「劉表殿は、劉琮を宜しく頼むと遺言して亡くなられた。それに背く事は信義として出来ない」と退けています。しかし、これも、甚だオカシイ記述で、たった数千の劉備軍に、襄陽が落せる筈もありませんし、それが出来る位強力なら、劉琮が劉備に、曹操に降伏する事を黙っているわけがありません。
出来ないというのが悔しくて、そんな酸っぱい葡萄理論を口にしたのを蜀書先主伝では、信義を貫く劉備として美化したのでしょう。また、先主伝では、この提案をしたのは孔明となっていますが、それが本当なら、孔明は相当なボンクラです。
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劉備、曹操に追われて怒りのデスロード、そこに魯粛が・・
曹操の大軍に追われた劉備は、大勢の荊州の避難民に混じり、食糧の備蓄がある江陵城に向かって移動します。その中で、また劉備の配下の誰かが、
「避難民を連れていては、足が遅くなります。これを捨ておいて身軽になって、進軍を進めましょう」と言うのを劉備が、
「大事為すには、人が根本だから、それを見捨てるようではとても成功は出来ない」と即座に拒否したとされています。しかし、直後に曹操に追いつかれた劉備は、そこで民どころか、妻子まで置き捨てて逃亡しているのですから、これも胡散臭い話です。事実は、劉備の傭兵部隊、数千は、膨大な避難民に囲まれて、戦争どころではなく、身動き取れない状態で曹操軍に追いつかれ、
劉備「もう駄目だ、皆、適当に散らばれ、落ち着いたら連絡する」
とか、何とか言って、孔明や張飛のような、一握りの股肱の臣だけを連れて、全力で逃亡したというのが、事実だと思われます。江陵城の食糧と武器を当てにしていた劉備と、その一行ですが、曹操は、軽騎兵を急行させて、一足先に江陵に入っていました。
そこで、劉備は、劉琦のいる江夏を頼ろうと、進行方向を変え、たまたま、別働隊として先に出発していた、関羽と遭遇します。そして、その船で沔水(べんすい:漢江)を渡り、何とか、江夏城の劉琦の兵力、数万と合流して一息つきます。劉備と孔明は、そこで、天下統一の野心を持って呉からやってきた魯粛に遭遇するのです。
三国志ライターkawausoの独り言
魯粛は、夏口で、劉備、そして、そのブレーンである孔明に面会します。自説を説いて、呉に味方し曹操を共に討ってくれと依頼する魯粛ですが、孔明は、魯粛と同様のアナーキー&ラディカルな考えを持った変人でした。ここに、中国の運命を変える喰わせ者達の思惑は完全に合致し、天命を盾に、中華を統一しようとする曹操に、立ち向かう事になります。
おっと、紙面が尽きました、その結末は、後篇にて、再見!!(次回記事:蜀のブサメン軍師、龐統は魯粛のスパイだった?劉備と龐統、仮面主従の真実)
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