諸葛亮のライバルという印象が強い司馬懿ですが、蜀だけでなく呉の北伐も食い止めている戦上手な人物です。
魏は国内での反乱がたびたび起きていますし、蜀や呉に何度も侵攻されていますが、司馬懿がいたからこそ大きな問題を抱えずに過ごしたとも言えます。今回はそんな北伐キラー司馬懿の戦歴にスポットを当てつつ、どのような戦略を採っていたのかを解説していきたいと思います。
この記事の目次
襄陽で諸葛瑾らを撃退
司馬懿が最初に北伐を防いだのは呉の諸葛瑾が侵攻してきた時です。時は226年、魏では曹丕が崩御して曹叡が帝位に就いたばかりでした。
孫権自ら江夏を攻め、諸葛瑾と張覇は襄陽へと侵攻してきましたが、曹叡の命令を受けた司馬懿が諸葛瑾を破り、さらに張覇を討ち取りました。
関連記事:曹操が諸葛亮や諸葛瑾の祖先を褒めていたってホントなの?その理由は?
関連記事:諸葛瑾はどうして弟・諸葛亮よりも影が薄いと言われるのか
電光石火で孟達を討つ司馬懿
227年に上庸にいた孟達は蜀に投降しようと画策します。この時、孟達は呉とも通じていたようで、魏、呉、蜀のいずれに与するか悩んでいたようです。
それを見た司馬懿は孟達を懐柔する手紙を出しつつも上庸を攻める準備を進めます。この時の司馬懿は宛城に駐屯していて、宛城から上庸までは半月ほどの距離。さらに孟達の計算では司馬懿が攻めてくるとしても、先に洛陽にいる曹叡に上奏してからになるので到着まで1ヶ月ほどはかかるだろうと予測します。
しかし、司馬懿は上奏をせずに、さらに昼夜敢行で進軍をしたためにわずか8日で上庸へと到着。備えをしていなかった孟達は焦りますが、時すでに遅くわずか16日にして味方が投降し、上庸は陥落しました。
反逆を企てたことで孟達は斬られますが、諸葛亮は孟達との連携を第一次北伐の戦略の1つとして考えていたため、司馬懿の電光石火の働きによって蜀軍の動きは大きく抑制されることになります。
関連記事:孟達と関羽がいなくても劉封は劉備に処刑される運命だった?
関連記事:孟達の死因は司馬懿を甘く見たからだった!その理由を考察
祁山で諸葛亮と対峙
231年、諸葛亮が4度目の北伐で祁山に進軍した際、司馬懿は上封へと進みこれを迎撃しました。ここからは晋書と三国志とで記載が異なり、晋書では諸葛亮の上封付近の麦を刈り取る作戦を司馬懿が看破し、昼夜敢行で進軍したところ諸葛亮は撤退した。
三国志では諸葛亮が司馬懿と別働隊である張郃が迫っていることを察知したために撤退したとあります。
結果的に諸葛亮は鹵城へと籠り、長期戦の構えを見せますが、李厳が食料不足を理由に諸葛亮を撤退させたために結局北伐は失敗に終わりました。いずれにしても司馬懿が諸葛亮を籠城にまで持ち込んだというのが戦の分かれ目となっています。
関連記事:雷銅とはどんな人?逃げる張郃を追って敗れた悲劇の仮面ライドー
■古代中国の暮らしぶりがよくわかる■
五丈原で諸葛亮と決戦
234年に諸葛亮は5度目の北伐を行います。この時は今までの祁山ルートではなく長安にも近い五丈原へと進軍しました。しかし、司馬懿は諸葛亮が積極的に攻めるのであれば五丈原ではなく、武功水に進軍するはずと読み今回も北伐は成功しないだろうと予測。
北原と陽遂での前哨戦から始まったこの戦いも決着はつかずに長期化していきます。
司馬懿は蜀が食料供給に難儀していることを知っているので、挑発に耐えて相手が自滅するのを待ちます。その過程で諸葛亮は陣没し、蜀は結局なんの成果も得られないまま撤退しました。
関連記事:五丈原の戦いは緊張感に乏しい戦だった?
関連記事:姜維は五丈原で何をしたのか?諸葛亮死す!愛弟子の姜維が取った行動とは?
樊城へ救援
241年に呉が揚州と荊州から北伐を開始すると司馬懿は周囲の反対を押し切って朱然と孫倫が包囲する樊城へ救援に向かいます。
ここも晋書と三国志で記述が違い、晋書では朱然を破る活躍をみせ、三国志では司馬懿の到着前に皇太子である孫登が死去したために呉軍は撤退しています。
ただ、戦況は呉軍が優勢であったため、司馬懿が救援に向かわずに樊城が落ちていたとすると、魏の国境線は著しく乱されていたはずです。
関連記事:孫権は張昭の屋敷を放火した?放火に至った公孫淵事件を考察
関連記事:3360名に聞きました!公孫淵はどこと組むのが一番いい?高句麗と邪馬台国も参戦?
【次のページに続きます】