魏延は蜀の軍団において貴重な軍事に秀でた武将でした。
しかしいわゆる「五虎大将軍」(関羽、張飛、趙雲、馬超、黄忠)らと比べると、業績は匹敵しますが、イマイチ人気、評価ともに低いイメージがあります。
それはなぜなのでしょうか?
今回の記事では正史「三国志」はもちろん、小説「三国志演義」も基にして探ってみたいと思います。
この記事の目次
魏延の人生(正史「三国志」より)
魏延の生まれた年は良くわかっていません。初めて彼の名前が出てくるのは211年、劉備の益州攻略の際に戦功をあげ、将軍に昇進しています。
219年に劉備が漢中王になると、その漢中の地の守りを任されるようになります。これは有力視されていた「張飛」を差し置いての事で、魏延は「曹操が10万の兵で攻めてきても大王(劉備)のためにこれを呑み込みます。」と勇敢な決意を述べ、賞賛されました。
その後は関羽、張飛らが亡くなったのちの蜀の貴重な勇将として諸葛亮に期待され、北伐に従軍し、手柄を立てています。
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【北伐の真実に迫る】
諸葛亮に対する愚痴
魏延は北伐を繰り返す諸葛亮に対し、魏攻略のための作戦を提案します。それは「古の韓信の如く、私が諸葛亮の本体とは別に兵士1万人を率いて潼関(長安近くの関所)で合流する」という作戦でした。
「韓信」は劉邦の時代、劉邦とは別に旧道を通って関中を平定しました。恐らく魏延単独で長安を最短ルートで強襲する計画だったのでしょう。
しかし、諸葛亮はこの案を採用せず、魏延は「諸葛亮は弱腰だ。これでは自分の才能を活かせない。」といつも嘆いていました。
この自信満々と諸葛亮への態度が魏延の評価が低い一因かもしれません。
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最期のゴタゴタが好感度、評価を落としている?
234年、諸葛亮は北伐の最中に無念の内に死の床にありました。
そこで「楊儀」(魏延と犬猿の仲だった)、費禕らに軍の撤退を指示し、魏延には殿を命ずるようにし、魏延が従わなければ構わず撤退するように命じました。
諸葛亮の死後、費禕が魏延の様子を探ると魏延は「自分が北伐の指揮をとる、楊儀の命令には従えない。」と命令を拒否。これを聞くと蜀軍は撤退を開始します。魏延はこれに怒り、楊儀が戻れないように先回りし、桟道を焼きます。
そして魏延、楊儀双方ともに「相手が反逆した」と上奏します。しかし魏延の訴えは認められず、楊儀は魏延に対し「王平」を派遣します。
王平は「まだ公(諸葛亮)が亡くなったばかりなのに、なぜこんなことをするのか。」と言い、それを聞いた魏延の兵士は殆どが逃げてしまいます。
魏延も逃げますが、「馬岱」に斬られ、楊儀は魏延の首を踏みつけ「まだ悪事が出来るか、やってみろ」と罵ります。
この悲惨な最期が、魏延の功績をかき消してしまったと考えられるでしょう。
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小説「三国志演義」での魏延
魏延の悪いイメージの決定打は小説「三国志演義」の描写でしょうか。
魏延は主君を裏切って劉備に降伏し、諸葛亮に「彼は反骨の相(裏切るような容貌)がある、斬るべきです。」とまで言われています。
その後は度々諸葛亮と意見を違えるのですが、その勇猛ぶりと他の勇将の死により、活躍の場を与えられます。しかし、その最期は正史「三国志」と似たようなもので悲惨なものです。
「三国志演義」において魏延は勇将ながらもその性格から周囲に好かれず、諸葛亮にも嫌われるような人物となっています。「三国志演義」では諸葛亮は絶対的な存在ですから、彼に嫌われることで魏延の評価が低い一因となっているでしょう。
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正史「三国志」著者「陳寿」の魏延評
正史「三国志」の著者「陳寿」は魏延の伝記を「劉封、彭羕、廖立、李厳、劉琰、楊儀」ら左遷や刑死したものばかりが集まった巻に入れています。
魏延に対しては「勇将ぶりが評価されていたが、己の行動や言動のせいで災いを招いた。」と厳しい評価をしています。
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中国での魏延
現在の中国では魏延はある程度名誉回復されているようです。四川省梓潼県には「魏延寺」と言われる場所があり、ここは魏延が軍を率いて駐屯した場所だと言われています。
近くにはかつて魏延の廟(祀られている場所)がありました。何度か寺は破壊されていますが、再建され、現在は魏延の像が寺に建っているそうです。
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三国志ライターみうらの独り言
魏延の評価が低いのは諸葛亮との関係によるものが大きいようですね。もし魏延がもう少し生きていれば、蜀の軍事行動は変わっていたかもしれませんね。
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