蜀末期の有名武将と言えば「姜維」です。かれは諸葛亮亡きあと、彼の意志をついで魏との戦い「北伐」を何度も行いました。結果的にはそれが蜀の国力衰退を招き、最終的には蜀は滅亡してしまいます。
その北伐の戦績は具体的にはどのようなものだったのでしょうか?
今回の記事で検証してみます。
この記事の目次
姜維が実権を握り、北伐を繰り返すまで
姜維はもともと魏の武将でしたが、諸葛亮の北伐の際に蜀に降伏をしています。諸葛亮は彼の才能を高く評価し、将軍職に抜擢され北伐にも帯同しています。
諸葛亮の死後は蔣琬、費禕が国政を担当しましたが、彼らは内政に徹し、大規模な北伐は控えていました。
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蔣琬、費禕存命中の姜維の北伐(第1次北伐〜第5次北伐)
大規模な北伐は行わなかったものの、姜維は軍事の責任者として北伐を行いました。第1次北伐は240年に行われ、その時は異民族である「羌族」の反乱に乗じて隴西(甘粛省東南部)に侵攻しますが、魏の「郭淮」に撃退され撤退します。
第2次北伐は247年、第3次北伐は248年に行われ、魏の異民族の反乱に乗じて侵攻します。第2次北伐では郭淮らを撃退することに成功しますが、翌年の第3次北伐では撤退することになります。
同年の第4次北伐ではのちに何度も戦う事となる「陳泰」「鄧艾」と顔を合わせますが、彼らの計略に屈し、撤退。250年の第5次北伐では西寧地区を狙いますが、敗れています。
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姜維の止まらない北伐の始まり(第6次北伐)
253年、姜維を抑えていた費禕が魏からの降伏してきた武将によって殺されます。そして軍事の全権を握った姜維は念願の大規模な北伐を敢行します。
253年に当時同盟国だった呉が魏の東に侵攻します。姜維はこれに乗じ、数万の軍勢を率いて狄道(甘粛省周辺)を包囲します。蜀と呉の同時攻撃にさらされた魏ですが、当時の魏の東部の守りは強いと判断し、蜀への対応を優先します。陳泰が姜維を迎撃し、姜維は食料が尽きた為に撤退を余儀なくされます。
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3県を制圧した第7次北伐
254年、魏の武将「李簡」が降伏してくると、それ乗じて軍を動かし、魏の名将「徐晃」の息子である「徐質」を討ち取ることに成功し、さらに3県を制圧することに成功します。姜維はその地区から住民を連行し、蜀の領土に移しています。
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反対を押し切った第8次〜第9次北伐
7次北伐で成果を上げ、姜維はさらなる北伐を計画しました。しかし蜀の武将「張翼」は「物資も不足し、人々も弱っている」と北伐に反対しました。姜維はその警告を無視し、第8次北伐を255年に敢行します。その北伐には張翼も参加させています。その戦いでは魏の「王経」の軍数万人を討ち取るなど大きな成果を上げました。
姜維はその勢いに乗じて更に軍を進めようとします。しかし張翼は「これ以上進むと、ここで得たものすべてを失うリスクがあります。蛇に足を追加するようなものです。」と反対しました。
姜維はまたしてもそれを無視。蜀の武将「胡済」と魏の艾を挟撃する計画を立てます(第9次北伐)。しかし、何故か胡済は現れず、艾に散々に敗れてしまいます。ここでは多くの死傷者を出し、姜維への怨嗟の声が国内で高まります。
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魏での反乱に呼応すべく、第10次北伐
257年、魏の「諸葛誕」が反乱を起こしました。姜維はこれに乗じて北伐を敢行します。しかし、これに立ちはだかったのが鄧艾でした。
鄧艾は有名な「万里の長城」にて姜維と対峙し、攻めるのは難しいとみた姜維は長期戦を選択し、両軍は半年余り対峙します。そんな中258年、諸葛誕の反乱が鎮圧されたことを知った姜維は撤退。またしても北伐は失敗します。この戦いの後、姜維は宮廷で孤立し、北伐の一時断念を余儀なくされます。
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最後の第11次北伐
262年、4年ぶりに姜維は北伐を敢行します。この北伐には関羽の時代からのベテラン「廖化」が激しく反対します。
彼は「戦いを止めなければ必ずわが身を焼く、とは姜維のことだ。知略は敵に勝てず、武勇も劣っている。北伐を続けても成功しない。」と厳しい言葉で姜維を非難します。が、姜維は聞き入れず北伐を敢行しますが艾に敗れます。
この翌年に魏が蜀に侵攻し、蜀は滅亡してしまいます。
姜維の戦績は?
姜維は大体11回の北伐をおこなったと考えられます。その戦績を見てみると、成功したと言えるのは第2次、第7次、第8次の北伐くらいでしょうか。姜維の戦績は3勝8敗で、大きく負け越していますね。
三国志ライターみうらの独り言
姜維の戦績を見ると、ほとんど敗れていて、成果はなかったと言えるでしょう。これに付き合わされた兵士たちの気持ちを考えるといたたまれないですね。姜維は優秀な武将ですが、人の上に立つ人物ではなかったのかもしれません。
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