今回は史実版に特化した春秋戦国時代の年表をわかりやすく解説します。何度も見返せるようにブックマークもおすすめですよ!さて、春秋戦国時代の歴史と年表は以下のようなものです。
この記事の目次
- 春秋戦国時代の歴史と年表
- 春秋戦国時代とは?
- 春秋時代と戦国時代の違い
- 春秋戦国時代の概要
- 春秋時代の年表
- 春秋時代の始まりと終わり
- 主な出来事と重要な人物
- 戦国時代の年表
- 戦国時代の始まりと終わり
- 主な出来事と重要な人物
- 春秋戦国時代の国と勢力図
- 国の滅亡順とその理由
- 春秋戦国時代の文化と思想
- 孔子と儒教の誕生
- 墨子と墨家思想
- 春秋戦国時代の日本との関連
- 日本への渡来人と影響
- 春秋戦国時代にまつわる逸話と逸聞
- 春秋戦国時代の有名な戦いとその結果
- 傑出した武将たちのエピソード
- 春秋戦国時代のその後
- 秦の統一と始皇帝の時代
- 春秋戦国時代が後の中国に与えた影響
- キングダムと史実の違い
- 春秋戦国時代ならではのよくある質問
- キングダムに登場する実在の人物は誰?
- 春秋戦国時代は何年から何年まで続いた?
- 春秋戦国時代の7つの国とは?
- 秦を統一したのは誰か?
- 韓を滅ぼした武将は誰ですか?
- キングダムの時代は日本の何時代ですか?
- 春秋戦国時代は何年から何年?
- 春秋時代と戦国時代の年号は?
- 秦は何をした?
- キングダムは史実に基づいている?
- キングダムは中国の何時代を舞台にしていますか?
- 春秋戦国時代とはどんな時代ですか?
- 戦国七雄の中で最初に滅ぶ国はどこですか?
- 東周と春秋戦国時代の違いは何ですか?
- 戦国時代と春秋時代の違いは何ですか?
- 秦が強くなった理由は何ですか?
- 史実版春秋戦国時代の年表のまとめ
春秋戦国時代の歴史と年表
春秋時代の年表は以下の通りです。
出来事 | |
紀元前771年 | 周の幽王が申候に殺される |
紀元前770年 | 周は東の洛邑に遷都(春秋時代開始) |
紀元前659年 | 秦で穆公が即位し勢力を伸ばす |
紀元前651年 | 斉の桓公は、諸侯と葵丘の会盟を執り行い覇者となる |
紀元前645年 | 斉の宰相、管仲死去(法家の祖) |
紀元前632年 | 晋の文公、宋の子玉を城濮の戦いで破り覇者となる |
紀元前597年 | 楚の荘王が晋を邲の戦いで破り覇者となる |
紀元前571年 | 楚に老子が誕生 |
紀元前551年 | 魯に孔子が誕生 |
紀元前506年 | 呉王闔閭が楚の首都の郢を落す大戦果を挙げ覇者となる |
紀元前473年 | 越王句践が呉の都姑蘇を陥落させ覇者となる。 |
紀元前451年 | 趙・魏・韓の3氏晋の地を三分する(戦国時代開始) |
紀元前403年 | 周王室が趙・魏・韓を諸侯として承認(三晋) |
紀元前359年 | 商鞅が秦の丞相となり商公の変法がスタート |
紀元前342年 | 斉の孫臏が魏の龐涓を馬陵の戦いで破る。以後、魏は衰退。 |
紀元前333年 | 蘇秦の合従策成る |
紀元前328年 | 張儀、秦の宰相となり連衡策を説く |
紀元前350年 | 秦、雍から咸陽へ遷都 |
紀元前313年 | 趙の武霊王、騎馬戦術 を採用 |
紀元前306年 | この頃秦で昭襄王即位 |
紀元前284年 | 燕の楽毅、燕、秦、趙、魏、韓の合従軍を率いて斉に侵攻。即墨・莒以外の全ての城を落とす |
紀元前280年 | 燕の昭王死去。楽毅、斉の田単の計略で趙へ亡命。斉の田単、五ヶ国合従軍に奪われた70余城を奪還 |
紀元前262年 | 韓の上党の帰属をめぐり秦と趙が長平で激突(長平の戦い) |
紀元前260年 | 趙王が秦の計略に掛かり、総大将を廉頗から趙括に変更。 |
紀元前259年 | 秦王嬴政生まれる。 |
紀元前256年 | 周王朝が秦に滅ぼされる。 |
紀元前249年 | 魯が楚に併合され滅びる |
紀元前247年 | 荘襄王死去、嬴政が13歳で即位。 |
紀元前230年 | 秦が将軍騰を派遣し韓を滅ぼす |
紀元前228年 | 秦が王翦と楊端和を派遣し趙を滅ぼす |
紀元前225年 | 秦が王賁を派遣して魏を滅ぼす |
紀元前223年 | 秦が蒙恬と李信を楚に派遣するが楚の項燕に敗れる。項燕が函谷関まで攻め込むも王翦が60万の大軍で撃破。楚も滅亡。 |
紀元前222年 | 王賁が遼東に逃れていた燕を攻めて燕王を捕虜とする。燕滅亡 |
紀元前221年 | 斉が秦の蒙恬、王賁、李信に攻略されて滅亡。(戦国時代終結) |
春秋戦国時代とは?
春秋戦国時代は、中国の歴史において周王朝が衰退し、多くの国々が割拠して争った動乱の時代です。紀元前770年から紀元前221年までの約550年間続きました。
春秋時代と戦国時代の違い
春秋時代と戦国時代には、以下のような違いがあります。
春秋時代 | 戦国時代 | |
時代 | 紀元前770年頃~紀元前403年頃 | 紀元前403年頃~紀元前221年 |
特徴 | 周王朝の権威が衰え、諸侯たちが覇権を争った時代。礼楽などの文化が花開き、儒家思想の孔子や老子といった思想家が活躍。まだ農業生産性が低く、戦争に庶民は無関係で、箇諸侯国の代々の貴族(大夫)が戦争を担ったので規模も小さく、礼に則った戦いが重んじられた。 | 春秋時代よりもさらに戦乱が激化。鉄器が普及した事で農業生産力が上昇。春秋時代よりも国の吸収合併が進み、戦争の規模が格段に大きくなり、庶民も戦争に動員された。各国が富国強兵を目指した時代。法家思想の代表である韓非子や商鞅といった人物が登場し、後の秦の統一に大きな影響を与えた。 |
キーワード | 尊王攘夷、覇者、礼楽 | 下克上、富国強兵、合従連衡 |
思想 | 儒家、道家 | 法家、兵家 |
春秋戦国時代の概要
春秋時代とは、古代中国の東周時代の前半期、紀元前前770年から前403年までの367年間です。春秋の五覇といわれる有力諸侯が衰えた周王室に代わって覇を競っていましたが、あくまで周王室を補佐する形であり、周を滅ぼすような事はありませんでした。
孔子や老子、墨子、荀子などの諸子百家が登場しました。初期は青銅器時でしたが、紀元前6世紀ごろから鉄器時代への転換が始まっています。
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春秋時代の年表
春秋時代の年表は以下の通りです。
出来事 | |
紀元前771年 | 周の幽王が申候に殺される |
紀元前770年 | 周は東の洛邑に遷都(春秋時代開始) |
紀元前659年 | 秦で穆公が即位し勢力を伸ばす |
紀元前651年 | 斉の桓公は、諸侯と葵丘の会盟を執り行い覇者となる |
紀元前645年 | 斉の宰相、管仲死去(法家の祖) |
紀元前632年 | 晋の文公、宋の子玉を城濮の戦いで破り覇者となる |
紀元前597年 | 楚の荘王が晋を邲の戦いで破り覇者となる |
紀元前571年 | 楚に老子が誕生 |
紀元前551年 | 魯に孔子が誕生 |
紀元前506年 | 呉王闔閭が楚の首都の郢を落す大戦果を挙げ覇者となる |
紀元前479年 | 孔子が死す。 |
紀元前470年 | 老子が死す。 |
紀元前473年 | 越王句践が呉の都、姑蘇を陥落させ覇者となる。 |
紀元前451年 | 趙・魏・韓の3氏が有力諸侯の知氏を滅ぼし晋の地を三分する(戦国時代開始) |
紀元前403年 | 周王室が趙・魏・韓を諸侯として承認(三晋) |
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春秋時代の始まりと終わり
春秋時代は、紀元前771年に暗愚で有名な周の幽王が諸侯の1人である申候に殺害され首都であった鎬京が異民族である犬戎族に蹂躙され、紀元前770年に周が都を東の洛邑に遷都した時から始まります。春秋時代の終わりは大国晋の重臣だった趙氏と魏氏と韓氏が、晋を滅ぼして分割した紀元前451年、あるいは趙、魏、韓の三国を東周王朝が諸侯として認めた紀元前403年です。
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主な出来事と重要な人物
春秋時代最大の出来事は紀元前771年に周の幽王が諸侯の1人である申候に殺害された事です。この時、申候は犬戎という異民族を伴い周の王都鎬京を蹂躙したので、自分たちを世界の中心と誇っていた周の諸侯は衝撃を受けました。以後、周王朝は没落するばかりであり、有力な諸侯は、自ら覇者を称して 尊王攘夷」を掲げます。
尊皇攘夷とは「 周王を助け、異民族を打ち払え!」という考え方です。つまり有力な諸侯が異民族から周王を助け、代わりに覇者として中国の秩序を守るという考え方が共有されました。春秋時代の重要な人物として 斉の桓公と晋の文公 がいます。
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戦国時代の年表
戦国時代の年表は以下の通りです。
紀元前451年 | 趙・魏・韓の3氏が有力諸侯の知氏を滅ぼし晋の地を三分する(戦国時代開始) |
紀元前403年 | 周王室が趙・魏・韓を諸侯として承認(三晋) |
紀元前359年 | 商鞅が秦の丞相となり商公の変法がスタート |
紀元前342年 | 斉の孫臏が魏の龐涓を馬陵の戦いで破る。以後、魏は衰退。 |
紀元前333年 | 蘇秦の合従策成る |
紀元前328年 | 張儀、秦の宰相となり連衡策を説く |
紀元前350年 | 秦、雍から咸陽へ遷都 |
紀元前313年 | 趙の武霊王、騎馬戦術 を採用 |
紀元前306年 | この頃秦で昭襄王即位 |
紀元前284年 | 燕の楽毅、燕、秦、趙、魏、韓の合従軍を率いて斉に侵攻。即墨・莒以外の全ての城を落とす |
紀元前280年 | 燕の昭王死去。楽毅、斉の田単の計略で趙へ亡命。斉の田単、五ヶ国合従軍に奪われた70余城を奪還 |
紀元前262年 | 韓の上党の帰属をめぐり秦と趙が長平で激突(長平の戦い) |
紀元前260年 | 趙王が秦の計略に掛かり、総大将を廉頗から趙括に変更。趙括は白起に敗れ討死し趙兵40万人が生き埋めにされる |
紀元前259年 | 秦王嬴政生まれる。 |
紀元前256年 | 周王朝が秦に滅ぼされる。 |
紀元前249年 | 魯が楚に併合され滅びる |
紀元前247年 | 荘襄王死去、嬴政が13歳で即位。 |
紀元前230年 | 秦が将軍騰を派遣し韓を滅ぼす |
紀元前228年 | 秦が王翦と楊端和を派遣し趙を滅ぼす |
紀元前225年 | 秦が王賁を派遣して魏を滅ぼす |
紀元前223年 | 秦が蒙恬と李信を楚に派遣するが楚の項燕に敗れる。項燕が函谷関まで攻め込むも王翦が60万の大軍で撃破。楚も滅亡。 |
紀元前222年 | 王賁が遼東に逃れていた燕を攻めて燕王を捕虜とする。燕滅亡 |
紀元前221年 | 斉が秦の蒙恬、王賁、李信に攻略されて滅亡。(戦国時代終結) |
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戦国時代の始まりと終わり
戦国時代は趙氏、魏氏、韓氏が大国晋を分割した紀元前451年に始まり始皇帝が六国の最後の一国である斉を滅ぼした紀元前221年に集結します。
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主な出来事と重要な人物
戦国時代で最も重要な出来事の1つは、紀元前403年、周王が韓、魏、趙の三氏を諸侯として認めた事です。これは身分が下の者が上の者を力で倒して国を分割する事が公に認められた事を意味し、それまで何とか残っていた春秋時代の序列や礼の風潮が消え、下克上、弱肉強食の時代が始まった事を象徴していました。また過去に覇者の桓公を出した斉も、紀元前386年に家臣の田氏が実権を奪いました。
また、重要な人物としては法家の商鞅を採用し秦を強化した秦の孝公や胡服騎射を採用して騎馬隊を組織した趙の武霊王、 外交交渉で六国をまとめて秦を倒そうとした縦横家の蘇秦、逆に六国を秦と同盟させ国を一つずつ撃破しようとした張儀がいます。戦国時代に勢力を伸ばした戦国七雄はもはや周王室を敬う事を辞め、それぞれが王を自称して富国強兵に努め、領土の拡張を競いました。やがて、それらの覇者の中から秦の始皇帝が誕生し、戦国時代は終焉を迎えます。
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春秋戦国時代の国と勢力図
春秋時代には、長江以北に秦や晋や燕、斉、宋のような強国がありましたが、それらの周辺にも衛、魯、杞、膝、薛、陳、蔡、鄭のような小国も存在していました。一方で長江以南には、楚や呉、越のような国がありました。戦国時代に入ると楚が勢力を伸ばす一方で、呉と楚は消滅。長江以北でも陳や蔡、鄭、宋、魯のような国々は晋を分割して生まれた新興国の趙や魏、韓、または斉、燕のような国々に併合され消えていきました。
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国の滅亡順とその理由
春秋戦国時代の末には、秦王嬴政が残りの六国を攻め滅ぼしていきます。六国の滅亡順は、韓、趙、魏、楚、燕、斉ですが、その理由は韓については六国で最弱であり、最も滅ぼしやすかった事が最大の理由です。
また2番目の趙は強敵でしたが大地震に見舞われて国が大飢饉に陥った隙を突きました。3番目の魏は秦と国境を接していて近い場所であり、趙が滅んで救援も来ない状態であった事から首都の大梁を水攻めで滅ぼし、4番目の楚は項燕が函谷関まで攻め上ってきたのを撃破し、逃げる項燕を追いながらついでに滅亡させています。
5番目の燕については秦と国境を接していませんが、趙が滅んだ結果、国境が接触した事や、燕の王太子の丹が個人的な恨みから秦王嬴政に刺客を送り失敗した事も滅ぼす口実になりました。最後の斉は秦から最も遠く、国境の接していない国であり、また事実上、国が大きいだけで国は衰え、それ以前から六国の合従軍に加わり秦を攻める力もありませんでしたので、特に焦る事もなく、一番最後にまわされたのです。
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春秋戦国時代の文化と思想
社会的には、鉄製農具の普及などによる生産力の向上により、氏族社会が分解して小家族が自立した。文化的には、諸子百家(孔子、孟子、老子など)の登場し、中国思想の源流となった。政治的には、周の封建制から秦・漢の郡県制による統一国家の形成に至る、大きな過渡期だった。
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孔子と儒教の誕生
孔子は、紀元前6世紀頃、中国の春秋時代末期の魯国という国に生まれました。この時代は、周王朝の権威が衰退し、諸侯たちが覇権を争う混乱の時代でした。
そんな乱世の中で、孔子はいわゆる「礼」という道徳的な規範や、人間関係の基礎となる「仁」の重要性を説きました。孔子は人々がこれらの徳を身につけて、お互いを尊重すれば社会が平和で安定すると考えたのです。
孔子が紀元前479年に死ぬと、その教えは弟子たちによってまとめられ「論語」という書物に記されました。この『論語』を軸も孔子の思想は後世に受け継がれて体系化され儒教と呼ばれる思想体系へと発展していきます。儒教は、単に道徳だけではなく、政治や社会のあり方についても考えを述べていき、儒教の思想は、中国の政治や文化に大きな影響を与え、東アジア諸国にも広がって現在でも影響を与えています。
墨子と墨家思想
墨子は、孔子と同時代の中国の思想家であり、墨家という思想集団の創始者です。儒教が道徳や礼教を重視するのに対し、墨子は兼愛、非攻といった、より普遍的な愛と平和を説いています。墨家思想では、すべてのものを平等に愛し、差別をしないという思想が核であり、その愛は家族や親族だけでなく、見知らぬ人や敵対する者に対しても平等に愛を注ぐべきだとします。そのため墨家思想では悲劇と混乱の元凶である戦争を否定し平和を重んています。
しかし墨子の説く平和は、侵略に対しては断固として武器をもって立ち向かって撃退し侵略の不可を悟らせるまで戦う能動的なものです。一方でこちらから他国を攻める事は否定していています。また、墨家思想では能力のある者を重んじ、その才能を社会のために活かすべきだと考え、無駄遣いをしないで節度を保ち、質素に生きる事を説いてもいます。
儒教との比較 | 儒教 | 墨家 |
愛の対象 | 君子、家族 | 全ての人 |
関係性 | 上下関係、礼節 | 平等、互助 |
価値観 | 道徳、仁義 | 平等、非攻、節用 |
目的 | 社会の安定、秩序 | 平和、幸福 |
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春秋戦国時代の日本との関連
春秋戦時代は戦乱の時代であり、海の向こうの日本について詳細に記した記録はありません。また、当時の日本も弥生時代の初期から縄文晩期でしたが、まだ文字をもたなかったので、その時代に大陸から誰が渡ってきたのかは不明です。
しかし、例えば、山口県宇部市では、1740年に沖ノ山松浜の砂中から発見された銅銭のつまった甕から、半両銭17枚と五銖銭78枚が出土しています。半両銭は春秋戦国時代の次の次である前漢時代のものですが、時代的には春秋戦国時代から100年ほどしか離れていないので、春秋戦国時代に海の向こうから中国人が渡ってきていた事は間違いないでしょう。
日本への渡来人と影響
春秋戦国時代には、日本について記した明確な文献がないので、どんな人が日本に渡来してきたのかは定かではありません。
しかし始皇帝に不老不死の薬を取って来ると嘘をついて、日本に渡った徐福の伝説が、日本各地にある点を見ると、徐福のように農作物や農機具、大陸の進んだ金属加工技術を携えて日本に渡ってきた渡来人は数多く居たと考えられます。
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春秋戦国時代にまつわる逸話と逸聞
春秋戦国時代は、中国の歴史の中でも特にドラマチックな時代であり、数多くの逸話や逸聞が残されています。英雄たちの活躍や知略、そして人間模様など、様々な物語が語り継がれています。
刎頸の交わり | 趙国の武将廉頗と知将の藺相如の二人の間で起きたプライドをかけた争いの話です。廉頗は最初、藺相如を口先だけの男だと罵倒し、今度会ったらただでは置かぬと放言しますが、藺相如は趙のために2人が争ってはならないとして、廉頗の放言に取り合わず低姿勢で接しました。廉頗は藺相如の心を知って反省し謝罪、二人は和解し趙を支えました。 |
龐涓ここに
死す |
斉の孫臏と魏の龐涓は兄弟弟子の関係にあった人物ですが、後に敵対し、お互いが魏と斉の運命を背負い激しい知略戦を繰り広げました。最終的には馬陵の戦いで孫臏が勝利します。敗れた龐涓は、敗走の途中、暗闇で木に書かれた文字を読もうとし松明に火をつけた所で「龐涓ここに死す」の文字を見つけ、伏兵に矢で射られて戦死しました。 |
合従連衡 | 張儀は各国の君主に遊説し、合従連衡を説いて秦国に対抗しようとしますが、最初は上手くいかず、楚で泥棒の濡れ衣を着せられひどく殴られて家に帰ってきます。妻は「口先で人を動かそうとするからひどい目に遭う、真面目に働きなさい」と諭しますが張儀は舌を出し「俺の舌は無事か?」と妻に聞き、無事だと妻が応えると「それで充分」とまた弁舌で各地の君主に取り入ろうとしました。やがて張儀の努力は実を結び、連衡論の主導者として秦の為に活躍します。 |
管鮑の交わり | 春秋時代の斉の管仲と鮑叔牙は、幼少の頃からの親友でした。しかし、仲は、家が貧しく素行が悪いため、時々鮑叔牙を騙すような事をしていました。ところが鮑叔牙は、管仲の境遇を知っていて、また、才能を重んじていたので、ひどい目に遭わされても笑って許し、少しも根に持ちませんでした。2人の友情は人間関係の手本として現在でも賞賛されています。 |
春秋戦国時代の有名な戦いとその結果
春秋戦国時代は、数多くの国が覇権を争い、大小さまざまな戦いが繰り広げられました。その中でも特に有名な戦いをいくつかご紹介します。
概要 | 結果 | |
長平の戦い | 秦と趙の戦い。秦の白起将軍が趙軍40万人を生け捕りにして坑殺するという、中国史上最大級の虐殺事件となりました。 | 秦の圧勝。趙は国力を大きく損ない、秦の統一への道を大きく開きました。
|
馬陵の戦い | 斉と魏の戦い。斉の孫臏が魏の龐涓の騎兵を巧みに隘路に誘導し罠にはめ、大勝しました。 | 魏は国力を大きく失い、斉は覇権を握るきっかけとなりました。
|
晋陽の戦い | 当時、晋にて権力を振るっていた知伯に対し、趙氏、魏氏、韓氏が共同して戦い知伯を撃ち破った戦い | 知伯が滅んだ結果、趙氏、魏氏、韓氏は広大な晋の領土を、趙と魏と韓に三分割。これにより戦国七雄が揃い、戦国時代が幕を開ける |
傑出した武将たちのエピソード
春秋戦国時代は、中国の歴史の中でも特に英雄たちが活躍した時代として知られています。数々の名将たちが、その知略や武勇を振るい、歴史に名を残しました。今回は、そんな傑出した武将たちのエピソードをいくつかご紹介します。
孫臏 | 斉国の武将として知られ、龐涓との知略戦で有名な人物です。龐涓に騙され両足の腱を切られ顔に刺青を入れられますが、復讐を果たすべく斉に仕え、魏と激しい戦いを続けました。馬陵の戦いでは、龐涓を巧みに罠にかけ、魏軍を壊滅させました。その知略は「孫子兵法」と共に兵法の古典として今も語り継がれています。 |
白起 | 秦国の武将として、その冷酷な一面と同時に卓越した軍事能力で知られています。長平の戦いでは、趙軍40万人を生け捕りにして坑殺する大虐殺が有名ですが、白起は生涯を通じて、こんな感じで殺した敵兵の人数は百万近いです。 |
廉頗 | 趙国の武将として、その武勇で知られていました。藺相如とのエピソードは有名でプライドの高い人物として描かれることが多いですが、同時に国を愛し勇敢な武将でした。長平の戦いでは白起の挑発に乗らずに城に籠城し固く守っていましたが秦の謀略で司令官を若い趙括に交替させられています。もし廉頗が健在なら長平の敗戦はなく、秦の天下統一は遅れたでしょう。 |
王翦 | 秦の武将として、白起と共に秦の統一に大きく貢献しました。白起ほど派手な活躍はしていませんが、安定した戦績を残しています。始皇帝の猜疑心の強さを把握し、あえて小者のように振る舞って警戒心を解き、天寿を全うした世渡り上手でもあります。 |
楽毅 | 燕の武将として、斉に征服された燕の危機を救い、燕を強大にした人物です。傲岸不遜な態度で周辺国に嫌われた斉の湣王を討つべく、秦、魏、韓、趙、楚の五か国に根回しして合従軍を組織し斉を滅亡寸前まで追いやりました。 |
春秋戦国時代のその後
春秋戦国時代は、秦の始皇帝による中国統一によって終焉を迎えました。春秋戦国時代は、周王朝の衰退を背景に、多くの国々が覇権を争った動乱の時代でした。この時代には、儒家、道家、法家など様々な思想が生まれ、社会は大きく変化しました。
そして、秦の始皇帝は法家思想を採り入れ、強大な軍事力と統一された法制度を構築。最終的に他の六国を平定し、中国を初めて統一しました。秦朝は始皇帝死後に反乱が相次ぎ短命に終わりますが、その後、漢王朝が興り、中国の歴史は新たな章を迎えます。秦が築いた中央集権的な体制は、後の王朝にも大きな影響を与えました。
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秦の統一と始皇帝の時代
始皇帝は、中国を統一した後、以下の様なことを行いました。
中央集権体制の強化 | 始皇帝は、郡県制を施行し、中央集権体制をさらに強化しました。 |
万里の長城の建設 | 匈奴などの外敵から国を守るため、万里の長城の建設を命じました。 |
文字の統一 | 篆書を統一文字とし、文字の統一を行いました。 |
貨幣の統一 | 統一された貨幣を発行し、経済の安定化を図りました。 |
焚書坑儒 | 思想統制を行い、過去の書物を焼き払い、知識人を処刑しました。 |
しかし、秦の統一は長く続きませんでした。始皇帝の死後、秦朝はわずか15年で滅亡してしまいます。その原因としては、以下のような点が挙げられます。
過酷な統治 | 始皇帝の統治は非常に厳しく、民衆の不満が蓄積されました。 |
大規模な工事 | 万里の長城の建設など、大規模な工事が行われ、民衆の負担が大きくなりました。 |
高すぎる税金 | 高い税金が課せられ、民衆は苦しみました。 |
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春秋戦国時代が後の中国に与えた影響
春秋戦国時代には、儒家、道家、法家、墨家など、様々な思想が生まれ、互いに競い合う「百家争鳴」の時代でした。これらの思想は、後の中国の思想体系の基礎となり、中国人の価値観や世界観を形作る上で重要な役割を果たしました。
また、孔子の思想を基盤とする儒教は春秋戦国時代を通じて発展、前漢時代において支配階級の思想として確立されます。法家思想は、法によって社会を統治するという考え方を提唱し、秦の統一に大きな役割を果たしましたが秦の時代以降も、儒教の裏側で民衆を統治する手段として発展します。秦が中国を統一すると中央集権的な国家体制を確立します。この体制は、官僚制度を整備し、効率的な統治を目指しますが中国の政治制度の基礎となりました。
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キングダムと史実の違い
キングダムと史実の違いについては以下のような事があります。
人物像の誇張
|
史実の信は、始皇帝の信頼が厚かった武将ですが、漫画のように孤児であったか、幼少期から武芸に長けていたかは不明です。 |
史実の王騎は、秦の六大将軍の一人として知られますが、漫画のように若くして戦死したか、あるいは漫画のような豪快な人物であったかは不明です。 | |
合戦の描写 | 漫画では、合戦が非常にドラマチックに描かれていますが、史実ではそこまで詳細な記録が残されているわけではなく、どのように戦っていたか不明な部分もあります。 |
人間ドラマ | 漫画では、登場人物間のドラマが強調されていますが、史実ではそこまで詳細な人間関係が史書に記録されているわけではなく、多くは想像力で補われています。 |
時代考証 | 漫画では、春秋戦国時代を舞台としていますが、時代設定がやや曖昧で春秋戦国時代には存在しないテーブルで食事を摂るようなシーンや同時代には存在しない武器等が登場します。 |
地理的な描写 | 漫画では、実際の地図と比較して地理的な描写が演出のために誇張されたり省略されている部分が多くあります。 |
「キングダム」は、史実をベースにしながらも、物語性を重視し、登場人物を魅力的に描くことで、読者に歴史への興味を喚起しています。史実と異なる点も、物語をより面白くするための工夫の一つと言えるでしょう。
春秋戦国時代ならではのよくある質問
以下は、春秋戦国時代の複雑な歴史や文化を簡潔に理解したい初心者や興味を持つ人々のために、わかりやすい質問形式で解説します。
キングダムに登場する実在の人物は誰?
キングダムに登場する実在の人物としては、秦王嬴政、昌文君、昌平君、信、羌瘣、王翦、蒙恬、王賁、李斯、楊端和、桓騎、李牧、傅低、蔡沢、郭開、呂不韋、王騎、騰、龐煖、劇辛、廉頗、藺相如、幽穆王、公私嘉、春申君、趙高、等々がいます。
春秋戦国時代は何年から何年まで続いた?
春秋戦国時代は紀元前770年から紀元前221年のおよそ550年間継続しました。
春秋戦国時代の7つの国とは?
春秋戦国時代の七つの国は、秦、趙、魏、韓、楚、斉、燕です。
秦を統一したのは誰か?
春秋戦国時代の秦はそもそも分裂した事がないので、統一した者もいません。秦の始皇帝が中華統一を果たしたのは紀元前221年です。
韓を滅ぼした武将は誰ですか?
韓を滅ぼしたのは、秦の将軍の騰です。
キングダムの時代は日本の何時代ですか?
キングダムの時代は、日本の弥生時代から縄文時代晩期です。
春秋戦国時代は何年から何年?
春秋戦国時代は紀元前770年から紀元前221年のおよそ550年間です。
春秋時代と戦国時代の年号は?
春秋時代と戦国時代には、まだ年号がありません。そのため、春秋時代や戦国時代は便宜上、その時代に国を統治していた君主の名前で数えます。例えば長平の戦いが起きた紀元前262年は、周の赧王53年、秦の昭襄王45年、楚の考烈王元年、斉王建の3年、燕の武成王10年、趙の孝成王4年、魏の安釐王15年、韓の桓恵王11年です。ちなみに年号は紀元前140年に前漢武帝が制定した建元が最初だと言われています。
秦は何をした?
秦は紀元前905年に非子によって建国され、春秋戦国時代の長い期間を通じて力を蓄え、31代目の王である嬴政の時代に最も強大な勢力となって六国と呼ばれる強大なライバル国を次々と滅ぼして、紀元前221年に史上はじめて中華を統一しました。
キングダムは史実に基づいている?
キングダムは、史実をベースにしつつも架空の人物が登場し、史実にはないストーリーを絡ませながら作者の想像力を加えて作り上げられた歴史エンターテイメント作品です。そのため、史実に完全に忠実というわけではありません。
キングダムは中国の何時代を舞台にしていますか?
キングダムは今から2200年前の春秋戦国時代末期を舞台にしています。
春秋戦国時代とはどんな時代ですか?
春秋戦国時代は、中国の歴史において周王朝が衰退し、多くの国々が割拠して争った動乱の時代です。紀元前770年から紀元前221年までの約550年間続きました。
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戦国七雄の中で最初に滅ぶ国はどこですか?
戦国七雄で最初に滅ぶ国は韓です。紀元前330年に秦の将軍、騰によって滅ぼされました。
東周と春秋戦国時代の違いは何ですか?
東周とは、紀元前770年に周王朝が都を鎬京から洛邑に遷都した以後の周王朝の名称ですが、後世に便宜的に呼ばれたもので春秋戦国時代の呼称ではありません。東周王朝の存続期間は春秋戦国時代とほぼ同じなので、両者にはほぼ違いはありません。
戦国時代と春秋時代の違いは何ですか?
春秋時代と戦国時代には、以下のような違いがあります。
春秋時代 | 戦国時代 | |
時代 | 紀元前770年頃~紀元前403年頃 | 紀元前403年頃~紀元前221年 |
特徴 | 周王朝の権威が衰え、諸侯たちが覇権を争った時代。礼楽などの文化が花開き、儒家思想の孔子や老子といった思想家が活躍。まだ農業生産性が低く、戦争に庶民は無関係で、箇諸侯国の代々の貴族(大夫)が戦争を担ったので規模も小さく、礼に則った戦いが重んじられた。 | 春秋時代よりもさらに戦乱が激化。鉄器が普及した事で農業生産力が上昇。春秋時代よりも国の吸収合併が進み、戦争の規模が格段に大きくなり、庶民も戦争に動員された。各国が富国強兵を目指した時代。法家思想の代表である韓非子や商鞅といった人物が登場し、後の秦の統一に大きな影響を与えた。 |
キーワード | 尊王攘夷、覇者、礼楽 | 下克上、富国強兵、合従連衡 |
思想 | 儒家、道家 | 法家、兵家 |
秦が強くなった理由は何ですか?
秦が強くなった理由には、紀元前359年に外国人の商鞅を丞相に迎え法家思想によって、王の権力を強化集中すると共に、能力のあるものは身分に関係なく抜擢して登用し、罪を犯したものは、身分に関係なく処罰。功績がある者は身分が低くても褒美を出すという公平な法律により秦人のモチベーションを引き出した事が大きいでしょう。
また、次男以下は年齢によって強制的に親元から引き離し、国が指定した土地に住まわせ近隣の住民と伍を組ませて、戦争時にはそのまま徴兵して戦わせるという仕組みも富国強兵には役立ったと思われます。また秦は中国の西の端で、その先には天然資源に恵まれた蜀が存在します。秦は蜀の経営に力を入れていたので、東でひしめき合って勢力を伸ばすのが難しい、他の六国よりも強くなる事が出来たとも考えられます。
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今回は史実版の春秋戦国時代の年表を扱ってみました。春秋戦国時代は550年も続く長い時代なので、もっと沢山、面白い事実がありますよ。
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