『三国志演義』の主人公、劉備の人生は、山あり谷あり、各地を放浪しまくります。はじめて三国志に触れる方には、どうにもわかりづらい劉備の行動。そこで、簡単に整理してみることにしました。
10代の劉備
161年に涿郡に生まれた劉備は、漢王朝の遠い遠い血縁ですが、遠すぎて劉氏としてのプライドはあるものの、財力はなにもない家で育ちます。ある人が、劉備母子の住まいの東南に生える桑の木を見てこんなことを言います。
「この家からは、きっと貴人が出るでしょう」
15歳の時、盧植の弟子となり、公孫瓚と知り合います。10代の劉備は、ファッションや、音楽、遊びなどにいそしむチャラ男生活を楽しみ、交友関係を広げます。
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20代の劉備
23歳の時、黄巾軍討伐に参加します。関羽(かんう)や張飛(ちょうひ)と知り合って、義兄弟の契りを結ぶのもこの時です。
手柄を立てて、安喜の尉に任命されましたが、群の督融(政府のおエライ方)の態度にカチンときて、縛り上げて棒で打ち据え、そのまま官職を捨てて逃げてしまいます。『三国志演義』ではこの汚れ役を張飛が引き受けてくれましたが、実際は劉備がしました。まだまだ血気盛んな、若者の気分が抜けない20代でした。
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30代の劉備
33歳の時、陶謙(とうけん)からまかされ、徐州の牧になります。しかし、あっという間に呂布(りょふ)に徐州を奪われて、行き場をなくした劉備は曹操(そうそう)のもとへ身を寄せます。しかし、やはり曹操の配下でいられるはずもなく、脱出。その後は、袁紹のもとへ身を寄せます。
官渡の戦いで、袁紹が曹操に敗れてしまったので、今度は劉表のもとへ身を寄せます。あちこちを転々とした忙しい30代でした。
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40代の劉備
劉備は劉表の荊州に7年ほど滞在します。わりとのんびりとした40代前半を送るのです。このとき、運動不足がたたり、ももに贅肉がついてしまったと嘆くのですが、もしかしたら中年太りだった……とか?しかし、46歳の時に人生のターニングポイントが訪れました。諸葛孔明を軍師に迎えたことです。翌年、孫権と同盟を組み、赤壁で曹操を破ります。
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50代の劉備
50歳のとき、劉璋に迎えられて蜀に入ります。そして、53歳で、益州牧となり、ようやく蜀の国が出来ました。劉備の最も輝かしい時代は、50代と言えるでしょう。
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60代の劉備
60歳の時、義兄弟の関羽が戦死してしまいます。ほぼ同時に、張飛も失い、劉備は弔い合戦を始めます。223年、合戦の途中、白帝城にて62歳で永眠します。
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