【郭嘉伝】ファン大ショック!郭嘉の功積はだいぶ盛られていた?

2016年11月15日

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kawauso編集長(石原 昌光)

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「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務めるほか、紙媒体やWebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

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おとぼけ(田畑 雄貴)

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郭嘉

 

曹操(そうそう)の誇る天才策略家、無頼の不良成年と言えば郭嘉(かくか)です。その活躍は、まるで魔法のようで、郭嘉の早死により魏は天下を統一できなかったとされる程に持ちあげられている郭嘉ですが、彼の伝には盛られた部分があります。

 

今回は、郭嘉ファン、大ショックの郭嘉の盛りについて解説します。

 

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正史三国志は、必ずしも真実を書いているとは言えない

三国志(歴史)を誇張しまくる羅貫中

 

三国志には、陳寿(ちんじゅ)が書いた正史三国志と遥か後に、羅貫中(らかんちゅう)が書いた三国志演義という二つがあるという認識は、三国志に詳しい方なら説明不用の話でしょう。

 

三国志演技と三国志正史005

 

そして、演義はフィクション満載、正史は史実に近いという認識だと思います。しかし、その認識は全体では正しいとしても、個別では間違う事があります。

 

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名編集長 裴松之により、陳寿の三国志には沢山の補則が付けられた

裴松之(歴史作家)

 

陳寿が三国志を著してから100年以上後、裴松之(はいしょうし)は宋の文帝の命令で、簡潔すぎる三国志に陳寿が使用しなかったネタや、三国志にまつわるネタを、新たに盛り込んで内容を濃くしていきました。

 

歴史書をつくる裴松之

 

これを裴註(はいちゅう)といい、正史三国志では、どこに裴松之の筆が入っているか分るようになってはいるのですが、それは陳寿の筆と裴松之の筆が三国志で混在するという状況を生み出したのです。

 

郭嘉

 

そして、記述の少ない人物を裴松之は補則で補ったので、結果として活躍が盛られる人物が登場します、その一人が郭嘉です。

 

郭嘉伝についた裴註は子孫の伝も含め、十項目ありますが、その内容は、記述に大袈裟なものが目立つ、魏の傅玄(ふげん)の書いた「傅子」由来の記述が7つ、魏略が2、説話系である世語が1つ入ります。この中の圧倒的多数を占める「傅子」由来がスーパー郭嘉を造り出す元ネタなのですが・・・それは、おいおい解説するとして、話を進めます。

 

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陳寿が書いた郭嘉伝を読んでみる 1

孔明 正史

 

では、裴註が加わらない素の郭嘉を確認する為に、裴松之の手が入っていない陳寿の郭嘉伝を簡単に説明します。

 

袁紹の悪口を言う郭嘉

 

郭嘉奉孝(ほうこう)は、頴川(えいせん)郡陽翟(ようてき)の人で、初めは北方の袁紹(えんしょう)に仕えようとして、会見するも、袁紹の臣、郭図(かくと)、辛評(しんぴょう)に言うには、

 

「そも、智者というのは自分で仕えるべき主を見定めるものです、そうであればこそ、百の献策を百採用され、功名が立てられるというものでしょう。しかし、私の見た所、袁公は、周公を真似て賢才を招いていても、人を使うテクニックがなく、色々計画しても実効性は乏しく、謀略を好んでも決断がありません。このような人では、天下を制覇するのは難しいと存じます」

 

かくして郭嘉は去った、その頃、曹操の配下の戯志才(ぎしさい)が死に、曹操は荀彧(じゅんいく)に「誰か適当な後任はいないか?」と聞いた。

 

 

郭嘉

 

荀彧は郭嘉を推薦し、曹操と郭嘉は天下の事を話し合った。

 

郭嘉

 

曹操は、郭嘉の才能を気に入り、「私の覇業を成してくれるのは郭奉孝だ!」と言い、郭嘉もまた、「私の探し求めた主は、この人だ」と言った。

 

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陳寿が書いた郭嘉伝を読んでみる 2

朝まで三国志 曹操と呂布

 

曹操は、呂布(りょふ)を討伐し、三戦してこれを破ると呂布は濮陽に籠城します。諸将は兵の疲労を考えて引き上げるように進言しますが、郭嘉は、曹操に説いて激しく攻めさせ、ついにこれを破りました。

 

孫策

 

この頃、孫策(そんさく)が江南で勢力を伸ばしていましたが曹操と袁紹が、官渡で戦うと聞くと、北上して許を狙わんという噂が届きました。人々は皆、恐れますが、郭嘉はこれを考えるに、

 

「孫策は英雄かも知れませんが、彼は各地で英雄豪傑を殺し過ぎました。しかも、彼には大将の自覚がなく、単独行動を好み、危険を察知できません。これでは百万の兵がいても無意味ですから、一人腕の立つ刺客を雇えば、殺すのは難しくありませんし、私の見た所、そうして死ぬでしょう」

 

孫策の人生に一辺の悔い無し

 

しばらくして、孫策は許貢(きょこう)の残党の手にかかり暗殺されました。

 

袁尚と対立する袁譚

 

官渡の戦いで、曹操は袁紹を撃破、さらにその後継者である、袁譚(えんたん)、袁尚(えんしょう)を黎陽(れいよう)に討つのに従い、連戦してしばしば勝利を収めます。諸将は勝ちに乗じてこれを攻めるべしと進言したが郭嘉は言います。

 

郭嘉

 

「今回の混乱は、袁紹が後継者を明確にしない事で起きました。郭図や逢紀(ほうき)がそれぞれに謀臣としてついている以上、放置しておけば、また分離して同士討ちを開始するでしょう。荊州の劉表(りゅうひょう)を討つフリをして兵を出し北には興味がないフリをして、両者を安心させるのです」

 

曹操は、その策を妙案として、早速、劉表を討つべく出兵した。それを見た、袁譚と袁尚は果たして冀州を奪いあう同士討ちを始めた。

 

公孫恭に討たれる袁尚

 

両者がお互いを潰し合ったので、曹操は南皮や鄴(ぎょう)を平定するのに手間が省け、郭嘉は手柄で洧陽(ゆうよう)亭侯に封じられました。

 

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陳寿が書いた郭嘉伝を読んでみる 3

曹操 真田丸

 

袁尚と袁熈は、烏桓(うかん)族を頼って北へと逃げ延びます。曹操は、烏桓族討伐の遠征軍を起こそうとしますが、群臣は「南の劉表が劉備を使って許を突くかも知れない」と反対します。

 

郭嘉

 

しかし、郭嘉は曹操の遠征を支持して言うには、

 

「殿の権勢は天下を震わせていても、烏丸は距離が遠いのを恃みとし、ろくに防備もしていないでしょうから、今、攻めれば勝てます。それに、袁氏は滅んだわけではなく、二児は生きていて、北方四州は、最近平定したばかりで殿の威厳に従っているだけで、内心は袁家の統治を懐かしんでいるのは間違いありません。ここで、北方を放置して、南の劉表を攻めれば、袁尚、袁熈が決起し烏桓族の蛮勇を恃んで攻めよせる事になり冀州と青州は我々の手を離れる事になると思います。

 

後継者を決めるのに困っている劉表

 

そもそも、荊州の劉表は議論屋で口先だけの男、劉備を使って、手柄を立てさせると、その発言力が増加するのでは?と内心では恐れています。劉表が劉備を信頼していないなら、劉備も命がけで攻めてくる事はなく荊州の動向を気にするのは、甚だナンセンスと言えます本拠地を空にして攻めても、何ほどの事もありません」

 

烏桓族

 

曹操は郭嘉の意見を容れて、烏丸討伐の軍を起こします。郭嘉が言うには、「兵は拙速を貴ぶので、補給隊を置き去りにして軽騎兵で急行し、烏桓族が備えを固める前に虚を突いて戦うべし」

 

曹操は言う通りに軽装の軽騎兵だけで烏桓の本拠地に突入すると、準備をしていなかった烏桓族は、あっという間に敗れ去ります。袁尚、袁熈は、さらに遼東に逃げます。

 

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陳寿が書いた郭嘉伝を読んでみる 4

郭嘉

 

郭嘉は広く軍略に通じていて、曹操も「私の事を全て理解しているのは郭嘉だけだ」と言っていました。郭嘉は遠征から戻った頃から健康を害して病に伏せ、曹操からの見舞いの使者が何度も往復しましたが、やがて亡くなりました。

 

荀攸

 

曹操は悲しむ事、甚だしく、荀攸(じゅんゆう)に言うには、「私の家来は、皆、私の同世代、ただ郭嘉ばかりが若かった、天下を統一した後の事は彼に頼もうと密かに思っていたのに、これも天命というものであろうか」

 

赤壁の戦いで敗北する曹操

 

後に曹操は、荊州征伐から還る折に、巴丘(はきゅう)で疫病に遭遇し、嘆いて言うには、「郭嘉が生きていたら、私をこのような状況にはさせなかったであろう」

 

郭嘉

 

郭嘉は素行が悪く、陳羣(ちんぐん)はそれを糾弾しましたが、郭嘉は落ち着き払っていました。曹操は郭嘉を咎めず、同時に同僚の過失も見逃さず咎める陳羣の態度も立派であると賞賛しました。

 

正史三国志を執筆する陳寿

 

かなり、長くなりましたが、これが陳寿の記した素の郭嘉伝です。これだけ見ても、確かに優れた軍師なんですが、これ以外に、裴註で加算された、盛りが多く存在しています。

 

郭嘉をスーパー軍師にしたの傅子の記述を紹介 1

郭嘉

 

では、陳寿が書いた郭嘉伝には、裴註により、どのような盛りが加えられているのでしょうか?とても長いので、かいつまんで、ポイントだけ紹介します。

 

郭嘉

 

① 郭嘉は若くして遠きを量る才がある人だった。漢末に天下が乱れようとしていた時、弱冠なので名前を隠し、密かに英俊とのみ交友して、世俗とは付き合わず、ゆえに同時代の多くの人間は知らず、ただ見識の高い人だけが知っていた。齢、27歳の時に司徒府に召された。

 

同年小録(書物・書類)

 

こちらは、傅子からの引用ですが、郭嘉が最初に袁紹に仕えようとしたという客観的な事実が抜けおちています。遥かに先の展望を見る目があった事を強調したいので、最初から曹操の出現を待っていたと言わんばかりです。

 

②曹操は、私は袁紹を滅ぼそうと思うのだが、勝つ事が出来ようか?と郭嘉に聞いた、すると郭嘉は袁紹が敗れる十の要因と、曹操が勝利する十の要因を挙げて、曹操を励ました。

 

こちらも傅子からの引用で三国志を題材としたビジネス書には、必ずと言っていいほどに出てくる鉄板ネタです。かいつまんで、幾つか、例を挙げますと・・

 

1袁紹の儀礼は煩雑だが、曹操の儀礼は自然に任せて理に叶う。

2曹操は献帝を奉じているが袁紹は逆臣の立場である。

3袁紹の政治は緩いだけで賞罰がピシッとしていないが

 

曹操に任せられ結果を出す国淵

 

曹操は賞罰をきっちり行い、メリハリがある。

 

4袁紹は極端に身内びいきで他所者を信じないが曹操は適材適所で、才能があれば他所者でも重んじる。

 

5袁紹の陣では、重臣が権勢を争っているが、曹操の陣営では曹操を中心に皆、一つに団結している。というようなモノで、間違ってはいませんが、いずれも後付けでどうとでも言えそうな話です。どちらかと言えば、郭嘉が袁紹の陣容を正確に把握していたと後世に伝えたいが故の装飾ではないでしょうか?

 

郭嘉をスーパー軍師にした傅子の記述を紹介 2

曹操から水攻めを受ける呂布

 

③ 曹操が呂布を濮陽に追いつめて持久戦になり軍を引き揚げて還ろうと考えると、郭嘉は進言します。

 

呂布のラストウォー 呂布

 

「昔、項羽は七十余戦して未だかつて敗北しなかったのに、一朝にして勢いを失うと身は死して国が亡んだのは、勇気ばかりを恃みにして、謀略が無かったからです、今、呂布は戦うたびに敗れて、気力も使い尽し、内外とも守るべきモノを失っております。呂布の威力は項羽に及ばないのに、負け方はそれ以上です勝ちに乗じてこれを攻めれば、これを捕える事が出来ましょう 」

 

曹操は、それを聞いて善しと言いました。

 

呂布と袁術

 

呂布が濮野に籠った時に諸将が引き上げるように進言するのを郭嘉が制して、断固、粉砕すべしと言ったのは正史にも見えます。しかし、項羽がどうのという引き合いは出していません。これは、元々の功積に箔をつけるような記述です。もしかしたら本当かも知れませんが、人伝いに郭嘉の功積が、伝わる間に儒者お得意の昔の故事を引く癖が出て付け足されたそういう話ではないかと思います。

 

郭嘉をスーパー軍師にした傅子の記述を紹介 3

劉備 曹操

 

曹操が速やかに劉備を討伐せんとした時、諸臣は、劉備(りゅうび)を討つ間に袁紹が背後を突いたらどうしますと反対した。その経緯は武帝紀に詳しい、曹操は思い悩んで郭嘉に相談すると、

 

郭嘉は・・・

「袁紹は動きが鈍いし疑り深いので挟撃される恐れはありません。また劉備は、まだ独立したばかりで人心を得ていないので、今、攻めれば、これを必ず撃破できるでしょう」

 

曹操は善しと言って、先に劉備を攻めて打ち破った、劉備は、袁紹の下へと逃げたが、郭嘉の言う通り袁紹は動かなかった。

 

主観が入りまくりな裴松之

 

一見、もっともですが、これには裴松之が反論しています。武帝紀を調べると、袁紹は疑り深くて動きが鈍く、劉備は独立したばかりで人心を得ていないので、打ち破るのは容易いと言ったのは曹操で、郭嘉ではないのです。

 

ほっぺたに矢を受ける孫策

 

また、裴松之は、孫策の刺客による死を予言した郭嘉の話についても、「本当なら明察だが、上々の智でないなら、人がいつ死ぬか分かるものではない。これは恐らく、偶然の一致に過ぎないのだろう」と言っています

 

呉の小覇王・孫策

 

実際、孫策が袁紹と曹操の争いに乗じて、許を狙うというのは、噂話に過ぎない事で、だからこそ郭嘉は孫策に備えろとは言わず、「どうせ、ああいう成りあがりは、刺客に殺されて死ぬのがオチです」と軽口を叩いて、慎重派を安心させたのでしょう。

 

それから、間も無く、孫策が本当に暗殺されたので、いかにも、郭嘉が孫策の死を予言したように思われたのでしょう。

 

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まるで逆になった魏略と傅子の記述・・

早めに劉備を暗殺しようと曹操に献策する郭嘉

 

曹操の下に逃れてきた劉備の処遇については、魏略と傅子は、まるで正反対の郭嘉の言葉を載せています。魏略では、ある人が劉備は英雄の質だから、いつ寝返るか分からないこれを殺して憂いを断つべきと曹操に進言します。そこで曹操が郭嘉に相談すると、

 

「一理はあります、しかし殿は義兵を興して、百姓の苦しみを除き、賢人を招集して、誠心誠意尽くしても、なおも足りない事を恐れています劉備は賢人として天下に聞こえていますが、これを殺せば、天下の賢人は、殿に仕えるのを躊躇する事でしょう一体、一人の人間を殺して憂いを除き、それにより天下の人心を失うのは同じでしょうか?よく察していただきたいものです」

 

一方で傅子では、以下のようになっています・・

 

「劉備は英雄であり野望を持ち、甚だ人心を得ております。それに加えて部下の張飛や関羽は一人で万人を相手にする豪傑であり、劉備の為に命を賭して働いています私の見立てでは、劉備は人の風下に立つ事はなく、その本当の考えは測る事ができません古人の言葉にも一日敵を放てば、数世代の憂患となるとあります禍が大きくなる前に早く処断するべきです」

 

この時、曹操は天子を奉じて天下に号令し、まさに英雄を招聘して大いなる信義を明かにしており、郭嘉の進言を受け入れませんでした。

 

たまたま曹操は劉備に袁術(えんじゅつ)を攻撃させたが、郭嘉は程昱(ていいく)と倶に駕籠(かご)で行って曹操を諫めます。「劉備を放てば大変な事が起こりますぞ!」

 

 

しかし、その時には、劉備は已に去り遂に兵を挙げて反乱した。曹操は郭嘉の言葉を用いなかった事を悔やんだ。

 

まるで正反対ですが、傅子の記述は創作だと思います。西暦200年、曹操の下を離れた頃の劉備は、ただの傭兵隊長であり曹操の脅威とは成りえないからです。恐らく、曹操が劉備を意識しだしたのは、劉備が益州を落して、確固たる地盤を得てからであり、それまでは、いつでも落せる昆虫のような認識しか無かったでしょう。ところが、傅子を書いた魏の傅玄(ふげん)は、西暦217年生まれであり、強大になり、曹操の天下統一に立ち塞がった劉備を後知識で知っています。だからこそ、郭嘉を通じて劉備は後で厄介な敵になると言わせ、その先見性を褒め称えているのです。どう見ても、この記述は創作臭く、極端な郭嘉アゲの臭いがします。

 

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曹操のあの感動的なセリフも傅子由来・・・・・

郭嘉

 

曹操がまた言うには

 

「哀しいかな奉孝! 痛ましいかな奉孝! 惜しいかな奉孝!」

 

こちらは、郭嘉を失った曹操が悲痛の余り、口走ったという劇的な言葉です。詩文に優れた才能を示した曹操らしい、感情の入ったセリフですね。

 

郭嘉

 

郭嘉は、自分の全てを分っていると言う程に郭嘉を信頼した曹操なら、これ位は言うかも知れませんが、残念ながら正史には無いセリフです。曹操が絶対に言わなかったとは言えませんが、しかし、傅子由来と聞くとねぇうーーーん、、知らないほうが良かったような・・

 

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三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

郭嘉と同族ではない傅玄が、どうして、こうまで郭嘉をアゲるのか良く分りません。もしかしたら、郭嘉と自分のポジションをシンクロさせていて、その為に、郭嘉をアゲて、俺はもっとすごいんだ!と言いたかったという事かも知れないです。

 

そうなると、ますます分らないのは、さらに縁故関係ない裴松之ですが、どうして、補則で傅子を7つも挿入したのでしょうか?

 

単純に郭嘉が好きだったか、面白中心主義を貫いたのか・・

本日も三国志の話題をご馳走様です

 

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郭嘉特集

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。「はじめての三国志」編集長。三国志・中国史を中心に、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を執筆・編集し、当サイトでは4,000本以上の記事を担当。三国志は正史から入ったため、演義を書くときのほうが神経を使うという天邪鬼。故郷・沖縄の歴史に関する勉強会の開催や、ラジオパーソナリティとしての活動も行う。

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