今回は曹操のお墓の話……とは言っても、曹操のお墓が何だかからくりめいていたとか、夜な夜な曹操が蘇るとか、そういうホラーな話ではございません。
曹操の墓である曹操廟に祀られた、曹操の功臣、ひいては魏の功臣たちのお話です。これは中々答えが出ない謎だらけのお話ですので、皆さんもぜひ考えて見て下さい。
曹操廟の二十五功臣
さて「曹操廟の二十五功臣」とは。これはざっくり簡単に説明してしまうと、曹操の功臣、ひいては魏の建国に尽力してくれた家臣たちを表彰しちゃうぜ!というお話です。
この話が出た時には既に曹操のみならず、曹丕もこの世にはおりません。スタートは曹操の孫に当たる曹叡の時代です。ではその表彰された家臣たちをざっと見てきましょう。
二十五功臣
233年
243年
244年
262年
二十五功臣は以上の人物たち、年代は祀られた年です。さて皆さん、これを見て何か思いませんか?
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魏の功臣の中にいないじゃないか!
ええ、これに尽きると思います。魏の功臣と言われるべき名高い人物たち、その中に「推し武将」がいなければ「なんでだ!」と声を荒げたくもなるでしょう。
しかし忘れてはいけないのはこの人物たちを選んだのは曹操や、曹丕ではなく、もっと後の時代の人たちです。このためこの選ばれた二十五功臣は、後の世で様々な憶測を呼ぶこととなっています。
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二十五功臣が選ばれた時
因みにスタートの233年は曹叡の代で、この時に選ばれたのは夏侯惇・曹仁・程昱の三名です。彼らが由緒ある最初の功臣たちと言えるでしょう。
また大量に選出されている243年は曹芳の代でこの二回目で数多くの功臣たちが選出されています。そしてこの曹芳について、ちょっと気になる点があるのです。
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由来の謎
曹芳は魏の三代目皇帝ですが、二代目の皇帝である曹叡の子ではありません。曹叡の子が相次いで夭折していたので、親族の曹詢と曹芳の兄弟を養子に迎えて、皇太子候補として養育していた人物です。しかし正史に置いて誰の親族かははっきりせず、立場の危うい人物とも言えます。
そんな彼が突如功臣たちを大量任命したのは、政治的な理由があったのではないでしょうか。後ろ盾がなく、その立場がしっかりしていないからこそ、何か仕事を成し遂げ、臣下に慕われる必要があります。
そういう意味では「建国の功臣」を任命することで、褒賞を与えた……言い方を悪くすれば、功臣たちのご機嫌取りをやったのではないかと思います。だから、曹操の功臣というにはちょっと首を傾げる人物たちも選ばれてしまったのではないか、と思うのです。
急ぎで功臣たちを選出したと言うなら、この大量選出と後の年の荀攸選出もおかしなものではないからです。
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