西暦190年、董卓暗殺に失敗した曹操は、故郷に逃亡します。並の人物なら、ここで暗殺の恐怖に怯えながら暮らす所ですが、流石は乱世の奸雄曹操です、転んでもただでは起きませんでした。
大金持ちの父、曹嵩を説いて、反菫卓連合軍を起こす為に資金援助をお願いし、大金を叩いてPR活動を行います。折しも、菫卓の少帝廃位に反対して下野した袁紹も、逆賊菫卓を討つと鼻息荒く、討伐軍を募っていました。
袁紹は、先祖が三公を出した漢王朝のエリート官僚の家柄であり、皇族を除けば、もっとも皇帝に近い家柄です。曹操一人では、とても困難な反菫卓軍の結成も袁紹が盟主になれば、不可能ではありませんでした。
前回の記事:18話:菫卓を守った最強のボディーガード呂布
この記事の目次
続々と各地から集まる豪傑達
曹操と袁紹は、少年時代は不良仲間で悪友同士でした。(もっとも、曹操は袁紹を天下を取れる器ではないと内心馬鹿にしています、、)二人は、タッグを組んで、中国全土の有力諸候に呼びかけます。それにより、中国全土から、17名という大多数の諸候が終結します。それは、総勢では20万人にもなるという空前の大軍でした。
関連記事:【三国志if】もし袁紹が官渡の戦いで曹操に勝ってたらどうなってたの?
関連記事:世説新語に書かれている曹操と袁紹の花嫁略奪がシュールすぎ(笑)
関連記事:袁紹に殺された2000人以外にも歴代の皆殺しに注目してみた。ちょっぴり不謹慎
北からは公孫瓚(こうそんさん)が参加
北からは異民族討伐で名声が高い公孫瓚が参加しています。公孫瓚は、降伏した異民族の中から騎射に優れた人間を集めて白馬義従という騎兵集団を組織して、度々異民族を破った名将です。また、この公孫瓚の配下として、劉備、張飛、関羽のお馴染み3人組も従軍しているのも忘れてはいけません。
南からは呉の基盤を築いた孫堅(そんけん)
南からは、江東の孫堅が手勢を率いて参加、彼は勇猛果敢で、黄巾賊討伐以外にも、似たような新興宗教の鎮圧で軍功を上げています。後に、江南に呉の勢力を築く、孫策、孫権の偉大な父と言った方が分かりやすいでしょうか?
関連記事:記録が乏しい孫堅の妻たち
西からは馬超の父、馬騰も駆けつけた
西からは、馬騰(ばとう)が連合軍に参加しています。馬騰は、漢民族の父と、羌族の母の間に生まれた混血児でした。身の丈は六尺で180cm以上、容貌は雄偉でありながら、性格は沈着冷静で温厚であった為にたちまちに声望を集めています。
彼も若くして、引き立てられて、軍司馬(将軍の副官)に任命され、羌族や、氐族という異民族討伐に参加して手柄を立てています。彼の息子は蜀の五虎将軍である豪傑、馬超(ばちょう)です。
関連記事:馬騰|北方異民族と戦う西の豪傑達にもっと光をを与えてみた
関連記事:馬超や曹操と因縁が深い氐族(ていぞく)
中央から袁紹の従兄弟の袁術(えんじゅつ)も参戦
さらに中央からは、袁紹の従兄弟である袁術も参加しました。三国志演義では、玉璽を孫策から兵と交換に巻き上げ皇帝を自称して自滅を早めてしまったという黒歴史が強調され、「野心が高いだけの馬鹿」として扱われる事が多い袁術ですが、実際には、時勢を読む力が鋭く戦乱のどさくさで太守が殺された人口100万人と豊かな南陽郡をちゃっかり支配して10万という大軍を保有しています。
後に劉備が依って立つ益州の人口が100万人ですから、袁術の目のつけどころがいかに良いかが分かります。孫堅や孫策も当初は袁術の配下のような扱いですから、反菫卓連合軍が結成された頃、袁術は連合軍の主力だったのです。
関連記事:とっても皇帝になりたかった袁術
関連記事:貴族はみんな兄弟げんかをする!袁紹VS袁術、曹丕VS曹植,孫和VS孫覇
それ以外にも各軍も参加
それ以外にも、孔融、王匡、劉表、等三国志を彩る郡雄が、雲霞の如く反菫卓連合軍に参加しているのです。菫卓は、内心穏やかではなく、呂布命じて、反菫卓連合軍を迎え撃つ準備を整えるのです。
次回の記事:20話:激突、菫卓対反菫卓連合軍