いきなりですが、魏の趙嚴(ちょうげん)を知っていますか。
かなりマイナーな武将ですので知っている人はかなり少ないと思います。
曹操(そうそう)が建国した国家は、人材豊富で優秀な武将達が数多くいましたが、欠点もあります。
それは魏の武将達が優秀なため、甲乙つけがたい状態になってしまったのです。
優秀な武将達は、勲功を争って対立したり、性格の不一致で対立したりと殺伐とした状況が続いておりました。
そのため、優秀な武将達を戦場で機能的に扱うためにはどうしても管理する人間が必要でした。
そこで曹操は武将を束ねて、機能的に軍隊を進退させるため趙嚴を起用することになるのです。
今回は武将達を束ねた管理人・趙嚴(ちょうげん)を紹介していきます。
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この記事の目次
統治者として優れた功績を残す
趙嚴は、戦乱に荒れている中原から避難し、比較的安全であった荊州へ行きます。
曹操が後漢皇帝である献帝(けんてい)を「許」へ向かい入れたと知ると、荊州を出て曹操に仕える事にします。
趙嚴は曹操から郎陵の県長(現代で表すと県知事クラス)に任命されます。
趙嚴は任地に赴くと飴(恩恵)と鞭(刑罰)を上手に使い分け、さらに私情を政治に持ち込まず、公正な統治を進め、民衆から信頼された県長であったそうです。
趙嚴は県長時代に、同僚であった李通の家族が罪を犯します。
趙嚴は同僚の家族であろうが、一切私情を挟まず、厳罰に処して彼の家族を処刑します。
李通は、家族が処刑されたことを聞きましたが、恨むことなく趙嚴の判断を評価して、趙嚴と親交を結んだそうです。
袁紹の策略によって寝返る地域が頻発
また官渡の戦いの時、袁紹(えんしょう)の策略によって曹操の領内で袁紹の勢力に寝返る地域が頻発します。
趙嚴が治めていた領地も動揺しますが、彼は民心を安定させるため、上司である荀彧(じゅんいく)に「民への徴税を緩めて治安を安定させたいと思いますが、よろしいですか」と相談します。
荀彧からの返答は「徴税した税をすべて民に返してあげなさい」とアドバイスをもらいます。
趙嚴はこのアドバイスを取り入れて、民から徴税した税をすべて返すことで、民心が安定します。
この結果、袁紹からの誘いがあっても領地は動揺せず安定していたそうです。
趙嚴はこの功績が認められて、司空(現代で言うと内務大臣的な地位)を補佐する主簿に任命されます。
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軍を統括する管理者へ
曹操は荊州の攻略を完了すると、趙嚴(ちょうげん)を都督護軍に任命し、于禁(うきん)や張遼(ちょうりょう)、張郃(ちょうこう)、朱霊(しゅれい)、李典(りてん)などの諸将をまとめる事になります。
さらに章陵の太守(行政長官)を兼任することになります。
趙嚴は、しっかりと彼らをまとめ上げ、機能的な軍を作り上げる事に成功させます。
赤壁の戦いで敗れましたが、諸将をまとめた功績が認められて、丞相を補佐する主簿へ任命され、長安近辺の県を統治する扶風太守を兼任することになります。
当時長安近辺の土地は賊が横行しており、非常に治安が悪い地帯でした。
しかし趙嚴は、この土地にのさばっていた賊を討伐し、治安を安定させ、民衆の人心を安定させました。
民衆の不安が取り除かれたことで、生産性は向上し、豊かな土地へと変貌を遂げるのです。
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影の統率者として本領を発揮
趙嚴は統治者として優れ、自尊心の強い魏の武将達をまとめ上げる、敏腕管理者として名を挙げていきます。
目立ちませんが、彼の能力は魏の国ではなくてはならない存在になっていきます。
敏腕管理者・趙嚴の本領を発揮する舞台がやってきます。
蜀の関羽が荊州へ侵攻
蜀の関羽(かんう)が大軍を率いて、荊州へ侵攻を開始します。
曹操は、荊州を守備していた曹仁(そうじん)を救出するため、援軍の大将に徐晃(じょこう)を任命し、徐晃の軍事アドバイザーに趙嚴つけて派遣します。
徐晃と趙嚴は、関羽軍に包囲されている樊城(はんじょう)近辺に到着すると、軍議を開きます。
そこで趙嚴は「樊城に籠城している曹仁の軍勢を勇気づけるため、まずは援軍が到着した事を告げましょう。」と提案します。
徐晃はこの提案を採用し、早速援軍が来たことを城内に知らせるため矢文を射こみます。
援軍が到来した事を城内に知らせた後、趙嚴は再度徐晃に「わが軍は寡兵(兵が少ない事)であるため、新たな軍勢が表れた後、関羽を攻撃しましょう」と提案します。
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徐晃は趙嚴の提案を受け入れる
徐晃はこの提案も受け入れ、新たな援軍が来援するまで、樊城近辺で待機します。
徐晃は新たな援軍を受け入れます。
ここで彼の本領が発揮します。
援軍到着によって武将の数が多数になり、指揮系統に支障をきたさないようにするため、彼は軍の配置や武将の配置をしっかりと決め、軍勢が機能的に動けるようにします。徐晃は、趙嚴(ちょうげん)がしっかりとした配置決めを行った事で、大軍勢を自らの手足のように動かすことができたのです。
そのおかげで徐晃率いる魏の軍勢は、機能的に関羽軍に猛攻をしかける事が出来き、関羽軍は樊城から退却します。
樊城に入城した、援軍の諸将らは関羽を追撃すべきか議論を行います。
趙嚴は、関羽を追撃しない方が良いと提案、その理由とは?
趙嚴はこの席で「関羽には孫権の脅威になってもらわねば困るから、関羽を追撃しない方がいいでしょう。」と発言します。
曹仁はこの発言を褒め、関羽追撃戦を行わず、戦闘態勢を解除します。
趙嚴が居なければ現場指揮官達は勝手な行動を取って、関羽の包囲を破れなかったかもしれないと思うと、趙嚴の人と人を結びつける管理能力は、卓越しており、魏にとってはなくてはならない存在であったと思います。
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三国志ライター黒田廉の独り言
趙嚴は曹丕(そうひ)の時代になると、対呉戦線の総司令官・曹休(そうきゅう)の軍師になります。
また曹叡の時代には昇進し大司農(国家の財政を管理する役職)に任命され、前線から退きます。
しかし卓越していた人材管理能力は政治にももちろん役立ち重宝されたそうです。
今回のお話はこれでおしまいにゃ。
次回もまたはじめての三国志でお会いしましょう。
それじゃまたにゃ~♪
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