この言葉を見ると三国志ファンは胸がザワザワする…
そんな特別なフレーズでもある『王佐の才』
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この記事の目次
王佐の才とは何?
この【王佐】とは『王を佐(たす)ける』という意味です。
【王佐の才】とは、『君主を補佐し、君主を偉大たらしめる事ができる優れた才能』という事なんですね。
元々は十八史略の唐の章で出てくる杜如晦にまつわる逸話から出た成語と言われています。
ちょっと三国志から脱線して、簡単にお話を説明…
唐の初代皇帝である高祖の次男・世民の名補佐役であったのが杜如晦です。
世民を妬んだ兄弟が世民の名補佐役である杜如晦を地方に飛ばしてしまおうと、高祖にまで色々と働きかけ画策しました。
しかし、世民の忠臣が高祖に「杜如晦は王佐の才がある有能な人物です。本当に唐の国を大国にしたいと思うなら、有能な杜如晦を遠ざけてはいけません。他に代わる人物はいません!」
と進言し、結果的に世民は第二代の唐の皇帝になりました。
というお話です。
他人に代えがたい、君主の補佐の素質をもった人を【王佐の才がある】と評すようになるきっかけとなった話です。
王佐の才といえば荀彧!!
『乱世の奸雄』といえば曹操(そうそう)、『美髯公』といえば関羽(かんう)、『小覇王』といえば孫策(そんさく)…というように、
三国志ファンにとって『王佐の才』といえば荀彧(じゅんいく)!
彼の代名詞のような肩書きです。ゲームなどでは荀彧の技だったり、特別なスキルだったりしますね。
荀彧はまだ幼い頃に政治家である何顒(カギョウ)から『王佐の才を持つ』と称揚されています。
多く名士を輩出していた名門・荀家に生まれた荀彧は、幼い頃からズバ抜けた頭角を現していたのだと推測できますね。
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司馬懿も荀彧を絶賛
曹操はデキる人材を集めるのが好きでしたが、荀彧が自分の元に来た時には
「我が子房(張良)が来た!」
と、これで天下を取れるぞ!とばかりに喜びました。
荀彧は戦でも政でも曹操を支え、更には自らの人脈を生かして多くの名士を推挙しています。
荀彧によって登用された人物で大成しなかったのは、若くして戦で命を落とした者くらい…
それほど人物鑑定眼にも定評がありました。
荀彧の活躍があったからこそ、後漢は魏に禅譲という形で王位を譲り、その後も血筋を残す事が出来たと言われています。
後世の記録でも荀彧を伝えるものはその業績を絶賛する記述ばかりで、司馬懿(しばい)でさえも荀彧を越える人物は見たことが無いと評した位です。
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補佐役は誰でも王佐の才と呼ばれたの?
この『王佐の才』とは補佐役に与えられる最高の賛辞でもあるのですが、
補佐役ならば誰でも言われたワケではありませんでしたし、優秀だからといってそのように評価されたワケではありません。
三国志中において数多の知将や軍師がいる中、『王佐の才』たる人物は結構居ると思うのですが…はっきりと『王佐の才』と評されたと記録されている人物はごく僅かです。
ん?僅か?
そうなんです。
荀彧の他にも実は『王佐の才』と評されていた人物がいるのです。
他にもいた!?王佐の才①王允
王允といえば、三国志演義では養女の貂蝉(ちょうせん)を用いて連環の計をしかけ、董卓(とうたく)と呂布(りょふ)の中を裂き、見事董卓誅殺に成功した立役者です。
王允は史実でも呂布と共謀し、多くの人が成し遂げられなかった董卓暗殺成功させています。。
若い頃、名儒として知られていた郭泰(かくたい)から
「王允は一日に千里を走り、王佐の才である。」
と、評されたといいます。
「一日に千里を走る」というのは、非常に優れているという例えで使われていました。
本当に走るわけじゃ無いのですよ。
それ位王允は非常に優れた才能がある人物だ!という事ですね。
漢王朝に仕えながら、時の佞臣に疎まれ投獄された事もある、なかなか気骨のある人物でした。
史実でも王允は司空という、当時の最高位である位を賜っていました。
董卓も王允には一目置いていて、司空に登用したのも董卓です。
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最期まで漢王朝の忠臣たった
董卓暗殺後、董卓の元部下からの復讐にあい、
董卓暗殺の罪で逮捕され一族もろとも処刑されてしまいますが、民衆からの信頼も厚く多くの人が嘆き悲しんだといいます。
後に献帝が王允の忠心を思い、殯(もがり)を改めて葬られ王允の名誉は回復されました。
最期の最期まで漢王朝に忠義を尽くした、忠臣ですね。
漢王朝では桓帝、霊帝、少帝、献帝という4代の皇帝に仕えました。
最期は司空という立場で、幼い献帝を傍で支え続けた『王佐』の名に相応しい人物といえます。
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他にもいた!王佐の才②陳宮
荀彧・王允と比べると、ちょっとインパクトに欠けるのですが…
陳宮(ちんきゅう)も王佐の才の持ち主として、主君を補佐する能力に関しては傑出していたといいます。
荀彧や王允と違い、誰に王佐の才と評されたと記録されているワケでは無く、そう言われていたという辺りは、やや説得力は弱いですね。
「陳宮は頭はいいけど、決断が遅い」
などとダメ出しされています。。。
陳宮は元々曹操に仕えていました。
しかし、曹操は自分が仕えるに値しないと判断し曹操の元を去り、呂布に仕えます。
最初はともかく、最後は呂布も陳宮の策をちっとも採用しませんでした。採用してたら変わったかもしれないのに…
曹操により呂布共々捕らえられた際も、再び曹操に仕える事はせずに処刑される事を選びました。
この処刑の前のやり取りは史実も演義も同じで、その才能を高く買っていた曹操は陳宮との最期のやり取りに応え、陳宮の死後も一族を厚遇し、面倒をみました。
誰よりも『王佐の才』になりたい!と願っていたのが陳宮なのかもしれませんね。
三国志ライターAkiのひとり言
君主とその補佐役って、持ちつ持たれつの関係だと思うんですよね。
補佐役の才能を見出し、活躍の場を与えて重用するのは君主の手腕です。
君主を補佐し、自らの能力を発揮し、君主をより偉大な存在へ導くのが補佐役の手腕。
この二つが成り立たないと、王の素質があったとしても、王佐の才があったとしても、共に歴史に名を残す事なく消えていったのでしょう。
それを思うにつけ、荀彧は自らの能力を遺憾なく発揮できる君主の元を選び、政治でも戦略でも輝かしいほどの業績を残し、優秀な人材を沢山登用した功績は、やっぱり三国志一だと思います。
孔明(こうめい)も周瑜(しゅうゆ)もとても優秀だけど、トータルで荀彧には叶わないんじゃないかと。
やっぱり『王佐の才』は、荀彧の不動の代名詞で間違いないと、言いたいです!
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