三国志の時代の行政単位で、長が常駐する最小単位は県です。
張純(ちょうじゅん)の乱を死んだフリをしてやり過ごし手柄を立てた事になって
役人に取り立てられた劉備(りゅうび)も、安熹県の県尉になっています。
さて、後漢から三国時代の県とは、どのような雰囲気だったのでしょうか?
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この記事の目次
後漢時代の都市は長方形
古代の中国の都市と言うと、平城京や平安京の碁盤の目の都市を
思いだす方も多いと思います。
あれは、人口数十万の大都市ですが、県城のような小さな都市でも同じであり
河北省武安県牛汲古城跡の遺跡によると、南北768メートル、
東西889メートルの城壁に囲まれたスペースが漢代から三国時代の県城でした。
県は、里というブロックで別れている
この城壁に囲まれた県城は、さらに里という区画に分かれていました。
里の大きさは南北380メートル、東西175メートルの長方形で
30~50メートルの間隔を開けて50件程度の住宅が建っていました。
里の中の各家は、15m×20mの大きさだというので、
大体、一軒で180坪位という事になります。
衛生的な後漢の県城の生活
家敷は低い土塁で囲われていて、屋根には瓦も少しですが使われていました。
敷地内には井戸があり、また、石組みの配管が出土した所もあるようです。
井戸の水は全て飲めるとは限りませんので、基本は生活用の水であり、
石組みの配管は飲料用の泉から水を引いた上水道だった可能性もあります。
里の中は、石の道路で舗装されたような箇所もあり、全ての県城が、こうだった
とは言えませんが、裕福な県では、当時としてはかなり衛生的な生活が
行われていたと言えるかも知れません。
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田畑は県城の中ではなく外にあった
一方で畑は、県城の外にありました、春秋戦国時代には、絶え間ない戦乱の為に
県城の中に畑もありましたが、漢の時代の長い太平で、城の中に田畑を持つ
必要性が無くなり、次第に城の外になっていったようです。
しかし、後漢末は再び、世が乱れたので、或いは田畑も再び城の中に造られる
ようになったのかも知れません。
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県城の人口はどの程度だったのか?
基本、県は、10の里という行政区画に分かれていました。
一つの里には50戸があり、一つの戸の平均人口は5名程度でした。
漢の時代には、すでに中国は核家族になっていたのです。
こうして考えると、一里の人口が250名×10=2500名です。
もっとも、大きい県も小さい県もあるので、これは目安にしかならないですが
つまり、劉備主従は、このような県城の中で県尉、警察署長のような仕事を
していたという事になるでしょうか?
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農奴状態だった豪族の都市
上に書いたのは、きちんと自分の土地を保有している自作農の都市です。
前漢末から後漢、三国の時代には、これとは別の都市が発生しました。
それが、豪族が私有民を使って造った郷という城塞都市です。
私有民とは政治の混乱で税金を支払えず土地を捨てて逃げてしまった農民、
或いは、生活苦で豪族から金を借りて払えなくなり、土地を豪族に手放して
自身は小作農として、それを耕すようになった人々です。
よるべなき彼等は、官憲から守ってもらい喰い扶持を保証された
代わりに、豪族の手足として必死に働かざるを得なくなりました。
彼等は、掘立て小屋のような場所で、大勢が密集して暮らす事を余儀なくされ
豪族の命令によって都市の整備や城壁の修理、或いは、流民や山賊が
出現した時には豪族の郷を守る為に兵士として駆り出されました。
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三国志の戦乱で戦う兵士の大半は、私有民
やがて、これらの豪族は、後漢の風雲で群雄になり、田舎の有力者から
一転して歴史の表へと出ていく事になります。
袁紹(えんしょう)や、劉備、劉焉(りゅうえん)、劉表(りゅうひょう)、
曹操(そうそう)、公孫瓚(こうそんさん)、孫権(そんけん)というような
英傑は、部下として、或いは自身が豪族として戦っていました。
配下の豪族は部曲(ぶきょく)という私兵団を使いましたが、これが豪族の小作人、
或いは農奴と化した農民達であった事は言うまでもありません。
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三国志ライターkawausoの独り言
今回は後漢から三国時代の県城を考えてみました。
前漢末から後漢は、豪族の力が非常に伸びていて、後漢を興した
光武帝も、また南陽の豪族だった程でした。
同じ農民でも自作農と豪族の私有民では待遇に天地の開きがあり、
曹操の屯田兵も、この私有民の一種でした。
私有民というイレギュラーな存在は曹魏を滅ぼした晋の武帝に
よって廃止され公民に編入されますが、それにより戸籍人口は
一気に倍以上に増えています。
いかに当時、私有民が多かったか、その存在が歴史に影響を
与えているかが分かる逸話です。
本日も三国志の話題をご馳走様でした。
—古代中国の暮らしぶりがよくわかる—
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この記事を書いた人:kawauso
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どうも、kawausoでーす、好きな食べ物はサーモンです。
歴史ライターとして、仕事をし紙の本を出して大当たりし印税で食べるのが夢です。
もちろん、食べるのはサーモンです。