徐福(じょふく)とは、本名を徐市(じょふつ)という秦の時代の方士です。
方士とは、占いや、健康法、不老不死の術を研究しているという、
いわば化学者と魔術師が混ざったような、どっちかと言うと、いかがわしい人達でした。
始皇帝は晩年、死の恐怖に怯えて不老不死を願い、徐市のような方士を大勢呼び寄せて、
仙人が住んでいる島を探させたり、不老不死の為の薬を造らせたりしています。
そんな徐市には、日本に渡り、神武(じんむ)天皇になったという話があるのです。
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この記事の目次
徐福は実在の人物である
徐福は、方士という怪しい職業といい大船団を率い海の彼方に消えたという
最後から始皇帝の不老不死への執念を当時の人が面白おかしく伝説化したものだと
考えられる事が多かったようです。
しかし、徐福が登場する文献は司馬遷(しばせん)が編んだ、歴史書史記であり、
いい加減な巷説(こうせつ)ではありません。
司馬遷は、秦の時代の後の前漢の人間で、年代的にも徐福の時代とは、
50年程度しか離れていません。
それに司馬遷は実証主義で、ただ風聞を記すのではなく
その土地まで行き、伝承と伝聞や証拠を収集するという方法を採用しています。
その司馬遷が、徐福の記述の部分だけをファンタジーにしてしまうとは
考えにくく、真実性があるから載せたと考えるのが自然でしょう。
正史三国志の陳寿(ちんじゅ)の呉志も史記をまた引きしている
また、徐福の話は、正史三国志を書いた陳寿が、呉志や孫権(そんけん)伝でも、
また引きしていますし、その後の歴史書も、そのような形で記述しています。
陳寿も基本的に、筆を曲げず信憑性を重視した歴史家なので、やはり、
徐福の実在には疑いがないと考えていたのではないでしょうか?
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徐福は何の為に始皇帝に近づいたのか?
司馬遷の史記によると、徐福は、本当の名を徐市といい斉国の琅邪(ろうや)の出身です。
史記の始皇帝本紀によると徐福は始皇帝に対して、
「遥か東の海に、蓬莱(ほうらい)、方丈(ほうじょう)、そして瀛洲(えいしゅう)と
いう3つの神の山があり、そこには仙人が住んでいます、私は、そこに行き、
陛下の為に不老不死の薬を頂いてまいりましょう」
というような事を言い、莫大な資金とスタッフを貰って海を渡ったようです。
徐福の仙人探しは9年に及びましたが、結局、仙人は見つからず、徐福は帰還します。
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ブチ切れる始皇帝を徐福は再び丸め込む
もちろん、大金を与えて、成果なく帰還した徐福を始皇帝が許す筈がありませんが、
徐福は、死を逃れる為に、弁舌を駆使します。
「実は、蓬莱、方丈、瀛洲を探したのですが、そこに巨大な鮫がおり、
船を邪魔して辿りつく事が出来ませんでした、ですので射手を与えていただければ
今度こそは必ず不老不死の薬を手に入れてみせます」
また、史記、准南(えなん)・衡山(こうざん)列伝の記録によれば、、
「仙人は、陛下の貢物が少ないのが不満で不老不死の薬を分けないのです。
ですから、3000名の童男、童女、それに技術者を100名、それに五穀の種を
用意して頂ければ、必ず次は不老不死の薬を手に入れてみせます」
というような見え透いた言いわけをして、徐福は死を免れるばかりか、
前回以上の資金と3000名の童男、童女、技術者100名、五穀の種と
大船団を与えられたのです。
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始皇帝は、どうして子供騙しのような徐福の嘘を信用したのか?
誰が聞いても嘘にしか聞こえない徐福の話を始皇帝が信じたのは、
すでに余命が少ない始皇帝が不老不死の薬が実際にあるかどうかではなく、
「無ければ困る、無い事を認めたくない」という心理状態にあったからです。
ここで、徐福を処分してしまえば、不老不死の薬を探す試みは、振り出しです。
そこで、1000分の1の可能性を信じて、再び徐福を東海に送りだし、
まさに神に祈る気持ちで徐福が帰るのを待ったのでしょう・・
ただ、始皇帝の願いは届かず、徐福は帰ってきませんでしたが。
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不老不死を求めつつ、死後の帝国を造らせていた始皇帝
ところが一方で始皇帝は、自分の墓である始皇帝陵を整備させ、死後の自分を
守る粘土製の兵士と軍馬である兵馬俑を地下に8000体も埋めさせ、
同時に、地下に地上の都を模した幾つもの建物を造りました。
これは、明らかに自分の死後を考えたもので、合理主義者だった始皇帝の
矛盾した性格を表わしています。
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徐福はどうして、種や技術者、若い男女を必要としたのか?
一般には、徐福は、始皇帝の死の恐怖を利用して金をせびり取った詐欺師という
考え方をされていますが、それならば、徐福はどうして危険を冒してまで
海を渡ったのでしょうか?
また、二回目の船出では、財宝ばかりではない、童男・童女3000名、
技術者100名、そして、五穀の種を持っていっています。
ただ、始皇帝を騙してとんずらなら、海を渡らないでも広大な中国大陸を逃げまわり
始皇帝が死ぬまで待つという方法もあったのではないでしょうか?
徐福は秦の恐怖政治が長年続く事を予期しフロンティアを目指した
もしかしたら、徐福は秦の恐怖政治が長く続く事を予感して嫌気がさし、
海の向こうにフロンティアを求めていたのかも知れません。
徐福自体も、元は斉の人間ですから享楽的な斉での生活に比べて、
はるかに厳格な秦の法律の中に息苦しさを感じていたのでしょう。
そこで、不老不死の薬を探すと嘘をいい、東の海を冒険航海しながら、
秦の力の及ばない大きな島を探す事にし、そこが1回目の航海で見つかると
次には、そこに本格的に移住する為に、食糧となる五穀の種や、
自分の手足になり働く、少年、少女や、生活の為の道具を造る技術者を
始皇帝から巻き上げたのではないでしょうか?
六国を滅ぼし空前の統一王朝を築き上げた秦が、まさか
たった15年で滅亡するとは、流石に徐福でも読み切れなかったのかも知れません。
徐福は日本にやってきて王になった?
徐福伝説でもっとも関心が高いのは、秦を脱出した徐福が日本を目指して入り、
そこに留まり、王になったという話でしょう。
この話は漢書、三国志呉書、などにあり、直接日本とは書いていませんが、
漢書では、平原大沢(へいげんだいたく)、三国志呉書では、亶州(だんしゅう)
と記されています。
また、遥かに時代は降りますが、西暦954年の五代の後周の時代に成立した
釈義楚(しゃくぎそ)「釋氏六帖(しゃくしろくちょう)」では、
日本国またの名を倭国は、東海にあり秦の時代に徐福というものが
五百の童男、五百の童女を率いてこの国に留まるとあります。
恐らく、釈義楚は、それ以前の文献に出てくる、平原大沢、或いは亶州を
日本に当てはめて考えたのでしょう。
徐福が初代神武天皇になった?
日本における縄文時代の終わりと弥生時代の始まりは紀元前2世紀頃だと
考えられ、それは徐福が日本に来たと考えられる時期と一致します。
また、日本全国には、徐福が上陸したと伝えられる場所が沢山存在します。
これは単なる偶然だったのでしょうか?
縄文時代は、いきなり終わったのではなく、次第に大陸の稲作をする人々が
増え始めて、いつしか人口比が逆転してしまい終結を迎えますが、、
徐福の率いた、3000名という子供達の子孫や大陸の技術者の集団が、
影響を与えていないとは言い切れません。
その事から、中国では徐福が日本に大陸の文明を持ちこんで王朝を開いた。
すなわち徐福こそが初代、神武(じんむ)天皇だ!と考える人もいるようです。
ですが、中国ではなく、日本側の歴史書には、徐福に類する人物は一切登場しません。
もし、徐福が日本の王になったなら、そのままではないにしても、何らかの
話が伝わっていそうですが、それは見当たらないのです。
この事より、徐福が渡ったのは日本ではないという考えも存在します。
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春秋戦国ライター kawausoの独り言
ちなみに現在の皇室の祖である大和朝廷が開かれたのは、4世紀位で、
三国時代が終わってからしばらく、後だと考えられています。
つまり、徐福が神武天皇だとすると、その時間差は500年以上あります。
また、神武天皇を神話の通りの即位とすると、それは紀元前660年になり
徐福より460年前になってしまいます。
この事から、徐福が仮に日本に上陸して王朝を開いても、それが直接に
現在の皇室に繋がっているとは言えません。
ただ、もし徐福が日本にやってきていたなら、当時の日本の人口から
考えて、少なからぬ文明的インパクトを与えた事は想像に難くないでしょう。
本日も春秋戦国時代の話題で乾杯!!