【教科書に載らない歴史ミステリー】徐福は神武天皇になったってホント?

2015年11月28日


監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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始皇帝は、どうして子供騙しのような徐福の嘘を信用したのか?

 

不老不死 始皇帝

 

誰が聞いても嘘にしか聞こえない徐福の話を始皇帝が信じたのは、

すでに余命が少ない始皇帝が不老不死の薬が実際にあるかどうかではなく、

「無ければ困る、無い事を認めたくない」という心理状態にあったからです。

 

ここで、徐福を処分してしまえば、不老不死の薬を探す試みは、振り出しです。

そこで、1000分の1の可能性を信じて、再び徐福を東海に送りだし、

まさに神に祈る気持ちで徐福が帰るのを待ったのでしょう・・

ただ、始皇帝の願いは届かず、徐福は帰ってきませんでしたが。

 

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不老不死を求めつつ、死後の帝国を造らせていた始皇帝

兵馬俑 kawauso

 

ところが一方で始皇帝は、自分の墓である始皇帝陵を整備させ、死後の自分を

守る粘土製の兵士と軍馬である兵馬俑を地下に8000体も埋めさせ、

同時に、地下に地上の都を模した幾つもの建物を造りました。

これは、明らかに自分の死後を考えたもので、合理主義者だった始皇帝の

矛盾した性格を表わしています。

 

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徐福はどうして、種や技術者、若い男女を必要としたのか?

 

一般には、徐福は、始皇帝の死の恐怖を利用して金をせびり取った詐欺師という

考え方をされていますが、それならば、徐福はどうして危険を冒してまで

海を渡ったのでしょうか?

 

また、二回目の船出では、財宝ばかりではない、童男・童女3000名、

技術者100名、そして、五穀の種を持っていっています。

ただ、始皇帝を騙してとんずらなら、海を渡らないでも広大な中国大陸を逃げまわり

始皇帝が死ぬまで待つという方法もあったのではないでしょうか?

 

徐福は秦の恐怖政治が長年続く事を予期しフロンティアを目指した

始皇帝 死ぬ

 

もしかしたら、徐福は秦の恐怖政治が長く続く事を予感して嫌気がさし、

海の向こうにフロンティアを求めていたのかも知れません。

徐福自体も、元は斉の人間ですから享楽的な斉での生活に比べて、

はるかに厳格な秦の法律の中に息苦しさを感じていたのでしょう。

 

そこで、不老不死の薬を探すと嘘をいい、東の海を冒険航海しながら、

秦の力の及ばない大きな島を探す事にし、そこが1回目の航海で見つかると

次には、そこに本格的に移住する為に、食糧となる五穀の種や、

自分の手足になり働く、少年、少女や、生活の為の道具を造る技術者を

始皇帝から巻き上げたのではないでしょうか?

 

六国を滅ぼし空前の統一王朝を築き上げた秦が、まさか

たった15年で滅亡するとは、流石に徐福でも読み切れなかったのかも知れません。

 

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徐福は日本にやってきて王になった?

大和朝廷 古代宮殿と邪馬台国

 

徐福伝説でもっとも関心が高いのは、秦を脱出した徐福が日本を目指して入り、

そこに留まり、王になったという話でしょう。

 

この話は漢書、三国志呉書、などにあり、直接日本とは書いていませんが、

漢書では、平原大沢(へいげんだいたく)、三国志呉書では、亶州(だんしゅう)

と記されています。

 

また、遥かに時代は降りますが、西暦954年の五代の後周の時代に成立した

釈義(しゃくぎそ)「釋氏六帖(しゃくしろくちょう)」では、

 

日本国またの名を倭国は、東海にあり秦の時代に徐福というものが

五百の童男、五百の童女を率いてこの国に留まるとあります。

 

恐らく、釈義楚は、それ以前の文献に出てくる、平原大沢、或いは亶州を

日本に当てはめて考えたのでしょう。

徐福が初代神武天皇になった?

 

日本における縄文時代の終わりと弥生時代の始まりは紀元前2世紀頃だと

考えられ、それは徐福が日本に来たと考えられる時期と一致します。

また、日本全国には、徐福が上陸したと伝えられる場所が沢山存在します。

 

これは単なる偶然だったのでしょうか?

 

縄文時代は、いきなり終わったのではなく、次第に大陸の稲作をする人々が

増え始めて、いつしか人口比が逆転してしまい終結を迎えますが、、

徐福の率いた、3000名という子供達の子孫や大陸の技術者の集団が、

影響を与えていないとは言い切れません。

 

その事から、中国では徐福が日本に大陸の文明を持ちこんで王朝を開いた。

すなわち徐福こそが初代、神武(じんむ)天皇だ!と考える人もいるようです。

 

ですが、中国ではなく、日本側の歴史書には、徐福に類する人物は一切登場しません。

もし、徐福が日本の王になったなら、そのままではないにしても、何らかの

話が伝わっていそうですが、それは見当たらないのです。

この事より、徐福が渡ったのは日本ではないという考えも存在します。

 

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春秋戦国ライター kawausoの独り言

kawauso 三国志

 

ちなみに現在の皇室の祖である大和朝廷が開かれたのは、4世紀位で、

三国時代が終わってからしばらく、後だと考えられています。

つまり、徐福が神武天皇だとすると、その時間差は500年以上あります。

また、神武天皇を神話の通りの即位とすると、それは紀元前660年になり

徐福より460年前になってしまいます。

この事から、徐福が仮に日本に上陸して王朝を開いても、それが直接に

現在の皇室に繋がっているとは言えません。

 

ただ、もし徐福が日本にやってきていたなら、当時の日本の人口から

考えて、少なからぬ文明的インパクトを与えた事は想像に難くないでしょう。

 

本日も春秋戦国時代の話題で乾杯!!

 

戦国策

 

 

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