「丞相」とは古代中国において君主を補佐し、内政、軍事などあらゆる政務を統括する役目の官職です。
現在で例えれば、大統領や君主(王、天皇など)に任命され政治を行う「首相」に相当します。「三国志」の時代でいえば蜀の「諸葛亮」があまりにも有名ですね。今回の記事では孫氏率いる「呉」の「丞相」一覧とその実績について語ります。
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この記事の目次
呉の歴代丞相一覧
呉には13人の丞相がいました。なお、10代目の丞相は「右丞相」「左丞相」(左が格上)と2人体制でした。
名前 | 在位期間 | 君主 | |
1 | 孫邵 | 222年−225年 | 孫権 |
2 | 顧雍 | 225年−243年 | |
3 | 陸遜 | 244年−245年 | |
4 | 歩騭 | 246年−247年 | |
5 | 朱拠 | 247年−250年 | |
6 | 諸葛恪 | 252年−253年 | 孫亮 |
7 | 孫峻 | 253年−256年 | |
8 | 孫綝 | 258年 | 孫休 |
9 | 濮陽興 | 262年−264年 | 孫休・孫皓 |
10左 | 陸凱 | 266年−269年 | 孫皓 |
10右 | 万彧 | 266年−272年 | |
11 | 許沇 | ?−276年−? | |
12 | 張悌 | 279年−280年 |
次項から各丞相について解説していきます。
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初代丞相 孫邵(生没年163年〜225年)
蜀の「孫乾」の親戚にあたる人物です。はじめは「孔融」、「劉繇」に仕えのちに孫権に仕えました。そして孫権の下で外交政策などを担当し、221年に丞相に就任しました。ただ、正史「三国志」には「伝(伝記)」が書かれておらず、詳細な実績はあまりわかっていません。
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2代目丞相 顧雍
呉の歴代丞相の中で最も長く務めた人物です。公平な人事を行い、時には民衆に直接意見を聞くこともあったといいます。
数々の建策をしましたが、それが取り入れられた時は孫権の手柄とし、不採用の時は決して人には言わなかったため、孫権にとても重用され、丞相職のまま亡くなっています。
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3代目丞相 陸遜
丞相職に就いていた期間は短いですが、「夷陵の戦い」など様々な戦で活躍をしました。文官としても数々の建策をし、呉の中心武将として重きをなしています。晩年は後継者争いなどで孫権と対立し、最期は憤死してしまいます。
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4代目丞相 歩騭
貧しい暮らしをしていましたが、働きながら勉学に励んでいました。諸葛僅らと友人であり、ともに孫権に仕えることになりました。水軍を率いて交州平定で活躍し、異民族討伐にも従軍し、陸遜の死後に丞相に就きました。人材を見る目があり、多くの有能な人物を孫権に推薦しています。
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5代目丞相 朱拠
文武において優れ、議論も得意だったといいます。孫権の後継者争いに巻き込まれ、孫権に激怒され、百叩きの上、左遷され、最期は自殺してしまいました。
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6代目丞相 諸葛恪
諸葛僅の息子で、諸葛亮の甥にあたります。幼少期からとても頭が良く、多くの人を驚かせたといいます。しかし、野心家で己の才能を誇りすぎるところもありました。
度々魏との戦いで戦功をあげ、丞相に就任しますが、周囲の反対を押し切った遠征で魏に大敗。人望を一気に失ってしまい、しまいにはクーデターで殺されます。
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7代目丞相 孫峻
孫氏の一族出身で、武術を得意としていました。孫権の死後は諸葛恪と共に政治を行いますが、諸葛恪が魏に大敗した後は彼と対立、殺害します。
その後は独裁体制をしき、意にそぐわないものは処刑するなど思うがままにふるまいましたが、魏への遠征中、諸葛恪に殴られる夢を見て病に倒れ、そのまま亡くなります。
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8代目丞相 孫綝
孫峻の従弟で、彼の死後に後継者となり、呉の実権を握りました。多くの呉の武将と争いを繰り広げ、君主の「孫亮」とも対立し、ついには彼を廃立。
跡を継いだ「孫休」の下で権勢をふるいますが、謀反の疑いで殺されます。
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9代目丞相 濮陽興
若いころから評判が高く、のちに呉王となる孫休とも親しい間柄でした。孫休が即位すると呼び寄せられ、国政を任されるようになります。孫休は死の間際、息子に地位を譲ることを望んでいましたが、濮陽興らは評判が高かった「孫皓」を擁立します。
しかし孫皓は暴君で政治は乱れ、濮陽興は大いに後悔したといいます。後に讒言され、殺されます。
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第10代左丞相 陸凱
陸遜と同じ一族の出身です。孫権の時代に軍権を任され、異民族討伐や魏、晋との戦いで活躍しました。孫皓が即位すると、暴政を繰り広げる彼に度々諫言し、廃立も計画しますが果たせませんでした。
亡くなる直前も孫皓をいさめる遺言を残すなどしましたが、呉の将来を悲観しつつ、亡くなりました。
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第10代右丞相 万彧
孫皓とは昔馴染みで、彼の皇帝への即位に貢献しました。即位後は対立する人物を追い落とすなど思うがままにふるまいましたが、のちに孫皓と対立。不可解な死を遂げます。
第11代丞相 許沇
正史「三国志」には記述がありませんが、孫皓によって建てられた、「封禅国山碑」という石碑に丞相として名前が刻まれています。彼の実績はよくわかっていません。
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第12代丞相 張悌
若いころから評判の高い人物で、「諸葛恪」から推薦されて呉に仕えるようになったようです。先述の「陸凱」からも期待され、孫皓の下で丞相に就任しますが、その直後に晋が呉に侵攻。
張悌は迎撃に出ますが、敗退し、降伏を勧められますがこれを拒否。最後まで戦い戦死しました。
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三国志ライターみうらの独り言
以上、呉の歴代丞相を紹介しました。一部をのぞき、ほとんどは権力争いに明け暮れていた人物ばかりですね。悲しい最期を迎えた者も多い印象です。特に呉は君主が孫権後は安定せず、家臣も振り回されていたのでしょうね。
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