三国志演義、或いは、正史三国志を普通に読んでいるだけでは、分かりにくいのが、当時の国の状態です。例えば、劉備が興した蜀漢は、いくつの行政府に別れていて、どのように軍隊が配置されていたのでしょうか?
三国志演義を見ていると、南の方で南蛮異民族が騒いで、何度か討伐しているような感じですが、実際ビジュアル的にはどうなっていたのでしょう?
蜀は一州だけど、12に行政区が別れている
地図上では一州の益州ですが、実は、かなり面積が大きく後漢の末には、700万を超える人口がいたとされています。当然、それを効率良く管理する為に益州は、12の行政ブロックに分割されていました。
黄巾の乱以後は、かなり人口が激減したとはいえ、広大な益州を効率良く統治する為に地域を分けた事は変わりません。それは北から、漢中郡、巴郡、広漢郡、広漢属国、蜀郡(首都)蜀郡属国、牂牁郡、犍為郡、犍為属国、越嵩郡、益州郡、永昌郡の12です。
もちろん、ここから、県レベル、或いは小国レベルのさらに小さい行政区に別れるのですが、キリが無いので、これ位にします。
北伐軍だけではない?五方面にあった蜀軍
さて、蜀軍というと、どうしても孔明の北伐軍が有名です。下手をすると、成都の首都防衛軍以外は、全部北伐軍ではないか?
そう思いこんでしまいますが、もちろんそうではありません。蜀がどの程度の兵力を動員できたかには、幅がありますが、益州の漢民族の人口と異民族の人口を合わせて、150万の総人口と考えると、その10分の1が、動員可能として、15万程度になります。
もちろん、これを全て、北伐軍に振り分けるわけにはいきません。成都は、魏や呉からは隔絶しているとは言え、異民族とは目と鼻の先です。実際に、成都で中領軍(近衛軍)を預かっていた向寵は、西暦240年、漢嘉郡という成都に近い場所で起きた異民族の反乱を鎮圧する最中に戦死しています。
そこで、成都には、成都防衛軍として3万位の兵力を裂いていただろうと考えます。また、いかに呉とは同盟関係とはいえ状況次第で、どう変化するか分かったものではありません。そこで、巴郡には、永安軍と江州軍という二軍が駐屯しています。
永安軍は、劉備が夷陵で大コケした時の敗残兵を中心に3万人、武将は、李厳や陳到が配置されていました。この二人では呉の陸遜に勝てないでしょうが、幸いにも呉蜀同盟は蜀の滅亡寸前まで維持され二人の出番はありませんでした。
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江州軍は、兵力補給部隊
巴郡には、もう一つ、江州軍という1万人からの軍団がいて、劉備の時代には、費観、そして後期は李厳が兼任して見ていました。この軍は主力というよりは、補給部隊で、南方軍や、永安軍が、大損害を受けた場合や、攻勢に転じた場合の増援部隊です。
一方で、蜀の懸念は、漢民族より数が多い、南方の異民族でした。そこで、永昌郡には、南方軍として、1万の兵力を配置します。ここの指揮官は、名将が多く、張翼、鄧方、馬忠、張嶷、等です。裏を返すと、それだけ、異民族の懐柔や鎮圧は大変だったのです。
ここに配置されている武将が、北伐に回せたら、もう少し孔明も楽だったでしょうね。
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メインは、北伐軍、7万人
さて、蜀軍で一番兵力が多いのは、何と言っても孔明が率いる北伐軍でした。その数は、凡そ7万人、それにプラス、異民族の兵を加えて、毎回、10万人前後の兵力まで持っていったようです。
もちろん、武将も一流揃いで、魏延、馬岱、馬稷、費禕、姜維、趙雲、鄧芝、楊儀、王平、等々が在籍しています。
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三国志ライターkawausoの独り言
物語として三国志演義を読むと、どうしても北伐、魏に目が向かいますが実際には、孔明の背後は真っ白だったわけでなく、異民族や呉や、それぞれの部下の思惑が交錯していたのです。
そういう状態を逐一把握しながら、一方で張郃や、曹真、司馬懿とギリギリの戦いを繰り広げるのは、相当にしんどかったでしょうね。おまけに劉禅はボンクラと来ていますし・・・本日も三国志の話題をご馳走様でした。
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