司馬朗(しばろう)とはどんな人?司馬懿でさえ頭が上がらない偉大な兄の生涯


司馬朗、曹操に見出されるも、年齢詐称疑惑・・

司馬朗06

 

故郷に帰った司馬朗ですが、数え年、22歳の時に、当時、後漢の司空になっていた曹操から呼び出しを受けて、司空掾属(しくうえんぞく)に任命されます。これは、司空となった曹操をサポートするスタッフです。それから、司馬朗は、成皋(せいこう)の県令などの地方官のポストを歴任します。しかし、ここで履歴的にオカシイ事が発生します。司馬朗の数え年22歳とは、西暦193年前後になり、まだ、曹操は司空どころか献帝を許に迎えてさえいないのです。曹操が司空になるのは、西暦196年の事なので、もし、これを正しいとすると、司馬朗は数え26歳という事になります。となると、12歳の時に、童子郎になったというのは、4歳プラスして、16歳という事になり、試験官の疑った年齢詐称疑惑が真実味を帯びてしまうのです。

 

もしや、司馬朗の年齢詐称疑惑は事実だったのか?

事実なら、よくあるアイドルの年齢詐称と同じで、「ほお~、、結構、ツラの皮厚いやんけ、司馬朗?」という話です。

まあ、ただの史書の年齢ミスかもしれないので、本当の所は、司馬朗しかわからないんですけどね。


善政を敷いて領民に慕われる 司馬朗

司馬朗 曹操

 

地方官僚になった司馬朗ですが、病の為に、一時仕事を辞めて故郷に戻ります。そして、病が癒えると出仕して、県長になり、そこで善政を敷いて、領民に慕われるようになります。その噂は曹操まで届き、再び、中央に呼び戻されて、今度は丞相になっていた、曹操のスタッフとして、丞相主簿に任命されます。その後に司馬朗は、兗州(えんしゅう)刺史(しし)に任命されて、寛大で領民を慈しむ政治を心がけたので、広く領民に慕われ、称えられました。


戦場で疫病が流行した時、部下に優先して薬を分け与えた司馬朗

司馬朗

 

司馬朗の死は、突然にやってきます。西暦217年、曹操は重臣の夏侯惇(かこうとん)を大将にして、南の孫権(そんけん)と雌雄を決しようと遠征を開始します。兗州刺史だった司馬朗も、これに従軍していますが、交戦中に疫病が大流行し、魏軍にも沢山の患者が出ます。薬が足りない中、司馬朗は、自分は薬を飲まず、兵士に率先して与えたので、ついに疫病に倒れ、そのまま帰らぬ人になります。司馬朗、享年 46歳でした。

 

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弟、司馬懿には、まったく見劣りする司馬朗

司馬朗

 

司馬朗は有能な行政官僚でしたが、ハッキリ言いまして、わざわざ魏書で、個別の伝を立てられるような活躍をしているとは言えません。実際、司馬朗程度の行政官僚で、伝が無い人などは幾らでもいるからです。司馬朗に、わざわざ伝が立てられている理由、そこには、やはり司馬懿という晋(しん)の礎を築いた英雄の兄という司馬朗のポジションが影響していると言えるでしょう。

 

実際に、人物評をよくする崔琰(さいたん)は、司馬朗に、「君は弟の才能には及ばない」と告げていますし、司馬朗は、それに怒った様子もありません。司馬朗も、弟の優れた才能を見抜いていたのでしょう。


曹操と司馬懿を引き合わせた司馬朗

曹操 ヨイショ

 

それでも、曹操が司馬朗を、優秀な行政官僚として、重用したのは、確かで、最初は、司空掾属、次には、丞相主簿と、二回に渡り、自身の手足として使っています。特に、二回目の丞相主簿の時には、西暦208年で、この年に、曹操は、司馬懿を脅迫に近い方法で召し出して仕えさせています。そこには、間違いなく、あの司馬朗の弟なのだから、有能に違いないという曹操の算段が働いていた事でしょう。

 

曹丕

 

無理やりに働かされた司馬懿ですが、ここで、後に主君となる、曹丕(そうひ)との交友も生まれ、後の魏の重臣への階段を昇る事になります。まさに、司馬朗がいなければ、司馬懿の出世の道は無かったか、或いは、かなり違ったものになった可能性もあるのです。

 

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三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

司馬の八達と言われ、いずれも優秀だったとされる司馬氏の8兄弟ですが、功績が残っているのは、司馬懿と司馬朗、そして、司馬懿の弟である司馬孚(しばふ)の3名位です。その中で司馬孚は、司馬一族でありながら、最後まで魏を擁護し、兄の子供や孫達の態度とは一線を画しました。また、才能も兄、司馬懿に匹敵し、諸葛亮の北伐には、財政面で貢献し、魏の曹叡(そうえい)は、「私は司馬懿を二名得た」と喜んだそうです。一見、一族で、魏を私物化したかに見える司馬氏ですが、実は、司馬八達の中で見ると司馬懿と彼の子孫が異質なのであって、司馬氏自体は、結構義理堅い人達のようですよ。

 

本日も三国志の話題をご馳走様・・

 

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