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107話:関羽の死|桃園三兄弟の悲しい別れ

2015年7月13日


 

関羽(かんう)に縁談を蹴られた孫権(そんけん)は、

司馬懿(しばい)が発案した、荊州奪還の計略に乗る事を決意します。

 

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前回記事:106話:関羽 傲慢すぎて魏と呉の秘密同盟のきっかけに

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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呂蒙が孫権に進言した作戦内容とは?

呂蒙

 

対蜀強硬派の呂蒙(りょもう)は、以下のような作戦を孫権に具申しました。

 

呂蒙:「まずは、襄陽城にいる曹仁(そうじん)に関羽を攻めさせます。

その隙に我々は、背後から関羽の本拠地である江陵城を奪いましょう」

 

孫権から許可をもらった呂蒙は、この作戦プランを魏に通達します。

 

呂蒙:「曹仁将軍が関羽を攻めれば、その隙に呉は、背後の江陵城を奪う、

孤立した関羽を討ち取った後は、荊州を呉が領有する、

それで異論はありませぬか?」

 

曹操(そうそう)は、司馬懿が立てた作戦プランと

同様なので大いに満足しました。

ここに秘密裏に呉と魏は同盟を結んだのです。

 

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呉と魏の秘密同盟を察していた孔明

諸葛孔明019

しかし、この計略を孔明(こうめい)は察知していました。

そこで、曹仁が攻めてくる前に、関羽が襄陽城を包囲して

挟撃を回避するように関羽に指示を出します。

 

関羽は承知して、軍を起して襄陽の曹仁を包囲し、

さらに、その上の樊城を包囲して龐徳(ほうとく)を攻撃していました。

 

龐徳の矢を受ける関羽

 

破竹の快進撃を続ける関羽ですが、この時、龐徳の矢を

左肘に受けて、負傷してしまいます。

 

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呂蒙の後釜に陸遜が現る

 

呉は、関羽が機先を制して動き始めた事で遅れを取っていました。

 

折しも、呂蒙は遠征先で病気を患い魏との共同作戦が微妙になって

しまっていたのです。

 

ところが、ここで呉には呂蒙に匹敵する天才将軍が出現します。

それが後に劉備キラーとして知られる陸遜伯言(りくそん・はくげん)です。

 

陸遜は非凡な戦略家でしたが、女性のような風貌が災いして、

少しも重大な仕事を任されていない無名の武将でした。

 

ですが呂蒙は、陸遜と実際に話をしてみて、その天才に驚き、

関羽を討ち取るのに、陸遜に作戦を任せる事を思い付きました。

 

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陸遜は関羽に手紙を送る

 

陸遜は、司令官を呂蒙と交代して、荊州に赴きますが、

その途中で、敵である関羽に書簡を送っています。

 

陸遜:「私は、この度、呉公より軍を任されたもので、陸遜と申します。

関公の武勇と忠義は、早くから聴き及び、その素晴らしさには、

個人として大いに尊敬しており、及ばずながら、一手手合わせを

お願いしたいと思い、不躾ながら、挨拶を兼ねて書簡を送る次第です」

 

その書簡を読んだ関羽は、大笑いしました。

 

関羽:「呂蒙に代わって、呉から誰か出てきたかと思えば、

陸遜とかいう無名の将軍ではないか?

 

聞けば、齢も30を超えているのに、風貌も女のようで、

手柄もろくに立てていない様子、、、

 

しかも、この手紙は何だ、敵であるワシを尊敬するなどと、

だらしがない事、この上なし

こんな青二才には、何も出来はせんわ!!」

 

関羽は、こうして、呉軍に対する警戒を完全に解いてしまいます。

 

呉の天才軍師・陸遜の策略

 

実は、これは完全な陸遜の狙いでした。

敢えて下手に出る事により自尊心の強い関羽を油断させて、

その間に電激戦を展開しようというのです。

 

江陵城の守りが手薄になった事を知った陸遜は、呉軍を率いて

江陵城を猛攻撃し、これを陥落させてしまいました。

 

陸遜:「関羽、私を侮ったのが運の尽き、さて、仕上げをやりましょうか」

 

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陸遜による関羽討伐、いよいよ始動

 

陸遜は、大量の密偵を関羽の軍勢に紛れ込ませて、

すでに江陵は呉の陸遜の手に落ちて、関羽は孤立していると流言を

流させています。

 

襄陽城、そして樊城を包囲していた関羽ですが、

二城は容易には陥落せず、兵は疲れ果てていました。

 

おまけに、曹操は襄陽城の救援の為に徐晃(じょこう)を送り込んできました。

 

関羽は、息子の関平(かんぺい)と共に徐晃相手に奮戦しますが

龐徳に受けた肘は毒矢によるもので、上手く左肘が動きません。

 

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関羽の元に江陵城が落ちたとの情報

 

その頃に、関羽の元に江陵城が呉の陸遜の攻撃で落ちたという情報が入ります。

 

関羽は「流言に過ぎぬ」と一喝して、兵士を安心させようとしますが、

既に、密偵が入り込んでいたので兵士の動揺は止まりませんでした。

 

関羽軍は、大量の脱走兵を出して、襄陽と樊城の包囲を解きます。

 

関羽は奪われた、江陵城を再度奪還しようとしますが、

江陵城は、陸遜と呂蒙の大軍で守られていて奪還は不可能と悟ります。

 

さらに、上からは、徐晃と包囲を脱した曹仁の軍勢が襲い掛かります。

進退に窮した関羽は、麦城という小さな城に逃げ込みます。

 

魏軍と呉軍に挟まれた関羽

 

寥化:「このままでは、敗北は避けられませぬ、

私めが上庸の劉封(りゅうほう)と

孟達(もうたつ)に援軍を要請しましょう」

 

関羽の配下である寥化(りょうか)は関羽の許可を得て、

呉と魏の包囲軍を抜け出して、上庸に到着します。

 

孟達と劉封に援軍要請

 

しかし、上庸城の孟達も劉封も、寥化の援軍要請に冷淡でした。

 

孟達:「上庸は、最近平定したばかりで、民心も安定しておらぬ、

それに、我々が兵を出しても麦城が持ちこたえられている保障もない」

 

寥化:「そ、それでは、あなた方は関将軍を見殺しにするおつもりか?」

 

寥化は、その冷たい反応を詰りますが、副将の孟達は、さらに・・

 

孟達:「関将軍の不始末は、自分で撒いた種、我々に責任転嫁されるのは、

迷惑千万というものだ」と突き放します。

 

寥化は止むなく、上庸を飛び出して、

成都に向かって援軍を求めにいきました。

 

関羽軍は既にボロボロ

 

関羽がたて籠った麦城からも脱走兵が相次ぎました。

無理もありません、周囲は全て、呉と魏の兵ばかりなのです。

 

関平:「父上、もはや、麦城には負傷して脱走できない兵以外には、

誰も残っておりません、一縷の望みを託し脱出して再起を図りましょう」

 

関平の説得に関羽もようやく納得しました。

 

関羽と関平は脱出を図るが陸遜によって...

関羽と関平と、一部の何とか動ける兵士は夜に乗じて麦城を脱出します。

しかし、それは既に、陸遜の想定の内に入っていました。

 

かつては、魏の五将を立て続けに斬った関羽も、左肘の傷の為に

思うように動けず、敵を蹴散らす事も出来ません。

 

呉の馬忠によって関羽は捕まる

 

そして、呉の馬忠(ばちゅう)という武将によって呆気なく捕らわれました。

 

関羽が捕まったと聴いた孫権は、呂蒙に対して、処刑は一旦待ち、

関羽に投降する意志があるかどうか確認するように指示を出しました。

 

呂蒙は躊躇なく関羽を切るよう指示、その理由とは?

 

ですが、呂蒙は孫権の手紙を見るや、躊躇なく関羽を斬るように

部下に命じました。

 

呂蒙:「呉公は、関羽がかつて助命され厚遇された曹操の下から

直ぐに、劉備の下に戻った事をお忘れのようだ・・

山犬は所詮は山犬、別の主人には懐きはせんわ」

 

関羽と関平の最期

関羽 死

 

西暦219年、関羽は、こうして息子、関平と共に斬首されます。

亨年は58歳、桃園三兄弟として、常に劉備の側にいた、

最強の豪傑は、誓いも空しく、戦場に散る事になりました。

 

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次回記事:108話:三国志を牽引した風雲児曹操、志半ばで死ぬ

 

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歴史ライターとして、仕事をし紙の本を出して大当たりし印税で食べるのが夢です。

もちろん、食べるのはサーモンです。

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

-全訳三国志演義
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