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[呉の誇り]魏や蜀に負けない!呉の十二神将を称えて

2025年7月17日


張昭、孫権、孫策、周瑜

 

 

マイナーな事においては、魏と蜀を引き離す呉の武将達、でも、それは、ただ、呉の武将達の業績が知られていないだけで彼等が、魏や蜀に劣るというわけではありません。

 

孫権を華麗に救出する蔣欽

 

 

そこで、今回は、呉で活躍した将軍達を一挙に十二人紹介します。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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【レポート・論文で引用する場合の留意事項】 はじめての三国志レポート引用について



呉の十二神将1 苦しい時こそ呉を支えた忠臣 程普徳謀(ていふ・とくぼう)

程普

 

エントリー№1は、孫堅の時代から仕える古参の名将である程普です。そのマイナーぶりから、光栄三国志では初期は散々な能力値でしたが、事実は、満身創痍になりながら孫堅(そんけん)を助けて、呂布(りょふ)華雄(かゆう)胡軫(こしん)の董卓(とうたく)の看板武将を撃破して、董卓を長安に遷都させた人物。

 

呉の勢力を率いる孫策

 

 

さらに孫堅の非業の死の後も、袁術(えんじゅつ)に飼われながらも孫策(そんさく)を盛りたて無茶をする孫策が賊に包囲された時には、たった二騎で大声を挙げて敵陣に突っ込み、孫策を救ったことさえあります。

 

周瑜と程普

 

しかも、孫堅の死後も、孫策の死後も、これを見限らず、むしろ忠誠心を発揮して呉を支え続けたのです。主君が苦しい時に支えになるのが忠臣なら程普を超える忠臣は、魏や蜀にもそうはいないでしょう。

 

 

呉の十二神将2 実は三公に招聘された品行方正な人 黄蓋公覆(こうがい・こうふく)

赤壁の戦いで活躍する黄蓋

 

エントリー№2は、蜀の黄忠(こうちゅう)に並ぶ筋肉ジジィ、黄蓋です。黄蓋は父が早くに亡くなり貧しい生活を余儀なくされますが、志を捨てずに勉強し郡の役人になった後は、考廉に推挙されて、三公の呼び出しを受ける程で、そのままでも役人として出世できそうでした。しかし、孫堅のスカウトを受けると、官途を捨て、その配下になりました。つまり、黄蓋はただの筋肉ジジィでは無かったんですね。

 

山越族から信服される黄蓋

 

黄蓋は自ら甲冑をつけて武器を振るって敵と戦い、部下にも優しかったので信用は絶大で、また異民族の統治にも公平に臨んだので行政官僚としても有能でした。

 

むち打ちで裁かれる黄蓋

 

赤壁の戦いでは、周瑜(しゅうゆ)と共同して戦い火攻めを提案し、曹操軍を撃滅する大金星を挙げます。

 

便所に放置される黄蓋

 

この時、流れ矢に当たって水中に転落、瀕死の状態で引き揚げられたものの、黄蓋とは気づかれず、しばらく船の上で放置されるなど危うく死ぬ所でしたが大声で同僚の韓当(かんとう)を呼んで救ってもらい九死に一生を得ています。

 

 

呉の十二神将3 だんだん地位が上がる晩成型 韓当義公(かんとう・ぎこう)

韓当(かんとう)

 

韓当は、黄蓋や程普と同期ですが、最初の頃はパッとせず下働きだったようです。しかし、弓馬の術にすぐれたのでメキメキと腕を挙げていき、何度も無茶をやらかしつつも手柄を立てたので、孫策が江東三郡を制覇する頃には同期の程普と同様に、兵2000と騎馬50頭を任せられています。

 

黄蓋、赤壁の戦いでうっかり河ポチャ

 

韓当は、劉繇の討伐、黄祖討伐にも活躍し赤壁では、流れ矢で川に落ちた瀕死の黄蓋を発見して手当てするなどナイスアシストを決めます。

 

父・関羽とともに亡くなる関平

 

 

そして、関羽(かんう)を撃破した南郡攻略戦、さらには夷陵の戦いでも活躍し、その後、隙を突いて攻めてきた曹真(そうしん)も撃退しています。これらの手柄から昭武将軍兼領冠軍太守+都督も兼ねて石城侯に封じられます。

 

三国時代の弓兵(兵士)

 

 

 

晩年には呉のグリーンベレーである敢死隊や解煩兵1万を率いて戦い、丹陽郡の賊を撃破しています。韓当は自分勝手な部分がなく命令を遵守し、チームワークを重視して戦い、歴代の君主の覚えもよく理想的な将軍として生涯を終えました。

 

 

 

呉の十二神将4 質素で勤勉で私心がない男 蒋欽公奕(しょうきん・こうえき)

周泰(しゅうたい)

 

 

蔣欽は、孫策の時代から同僚の周泰(しゅうたい)と共に仕えましたが、それは孫策が袁術の客将だった頃で、呉ではかなりの古株と言えます。

 

 

周泰に斬られる沙摩柯

 

 

他の呉将と同様に、蔣欽の最初の仕事は異民族討伐がとても多いのですが、これを、そつなくこなして手柄があり討越中郎将に任命され、経拘と昭陽を奉邑として与えられます。蔣欽は生まれが貧しかったせいか、学問をする暇がなく、聡明でも学力はない状態でしたが、呂蒙と同様に、その事を孫権に指摘されると、猛勉強し呂蒙(りょもう)と並んで「世の人々の手本」と讃えられました。

 

 

蔣欽

 

 

また、蔣欽は人間に奢りがなく、手柄を立てても謙虚で、自分ばかりでなく、妻や母にも質素な身なりをさせていたので、気の毒に思った孫権が、妻母宛に豪華な衣服を送り、恥ずかしい思いをさせないように配慮した事もありました。

 

徐盛(じょせい)呉の将軍

 

 

かつて徐盛(じょせい)と部下の処罰を巡りトラブルになり、徐盛は、その事で蔣欽が自分を恨んでいるのではないか?と疑っていましたが、濡須口の戦いにおいては、むしろ蔣欽は徐盛を褒めその私怨を仕事に差し挟まない態度で尊敬を集めました。

 

 

呉の十二神将5 無数の傷は忠義の証  周泰幼平(しゅうたい・ようへい)

周泰(しゅうたい)

 

周泰は蔣欽と同期ですが、孫策により弟の孫権の補佐につけられます。これは孫権が屈強な周泰を気に入り、自分に欲しいと言ったからだと言われています。ある時、孫権は山越討伐で油断して、手薄な本陣に奇襲を受けました。側にいた周泰は、孫権を守ろうと獅子奮迅の働きをして重傷を十二も受けてしまいます。何とか、賊を追い返した周泰ですが、その場で意識を失い、生死の境を彷徨いますが何とか回復します。孫策は、この事に深く感謝し周泰を穀県の長にしました。

 

行軍する兵士達b(モブ)

 

その後、孫権の時代になると、周泰は、ますます信頼され、黄祖(こうそ)討伐、赤壁の戦い、濡須(じゅす)では曹操軍と激闘します。このような事から、周泰は昇進を重ねて平虜将軍、濡須督になります。しかし、徐盛と朱然(しゅぜん)は、周泰を軽くみていて、指揮下に入っても、それに従おうとはしませんでした。

 

 

周泰(しゅうたい)の全身の傷を解説する孫権

 

 

これを知った孫権は、自ら徐盛、朱然、周泰を呼んで宴会を催し、席上で周泰の服を脱がせて、傷だらけの体を見せ、いかに周泰が、呉の為に生命を懸けて戦ったかを涙ながらに力説しました。それを見た徐盛と朱然は態度を改め、周泰の命令に服すようになりました。

 

 

 

呉の十二神将6 孫権が何度も遊びに来るナイスガイ 陳武子烈(ちんぶ・しれつ)

陳武

 

 

孫策が袁術の客将で寿春にいた頃に、拝謁して家臣になっています。身の丈が18歳で七尺七寸と大きく、180センチ位はあり孫策が長江を渡って江東の制覇に向かうと、別府司馬として従軍して各地を暴れまわります。

 

順調に将軍まで出世する陳武

 

 

孫策が劉勲(りゅうくん)を降すと、その敗残兵を陳武に選抜させ指揮させましたが、その部隊は百戦百勝の精鋭部隊に生まれ変わったという事です。

 

陳武の跡を継いだ長男・陳修

 

 

陳武は、思いやりがあり、また気前がいい男だったので、避難民は皆、陳武を慕った他、孫権も陳武に懐いていて、彼の屋敷を自ら何度も訪れる程の仲でした。

 

 

張遼の猛攻に泣きながら逃げる孫権

 

 

 

しかし、そんな陳武、215年の合肥の戦いでは、張遼(ちょうりょう)が率いる、ぶち切れ決死隊800名によって攻撃され戦死してしまいます。

 

 

孫権を守り抜き戦死した陳武

 

 

孫権はこれを聴いて悲しみ、自ら葬儀に参加しています。

 

 

 

呉の十二神将7 命がけの働きで漢を震わす 董襲元代(とうしゅう・げんだい)

董襲

 

董襲は孫策が会稽を攻略した頃に、恭順し挨拶にやってきましたが、その八尺という巨体と立派な振る舞いに孫策が感心して配下にします。呉の支配領域の拡大は山に住む異民族との戦いでしたが、董襲も例外ではなくそれに参加します。孫策が山陰においては千人余の徒党を率いていた賊の頭目の黄龍羅(こうりゅうら)と周勃(しゅうぼつ)の討伐に取り掛かると董襲も参加して二人の首領の首を斬り、その功積で凱旋後に別部司馬に任ぜられ、数千の兵を与えられています。

 

ほっぺたに矢を受ける孫策

 

不幸にも孫策が刺客の手で非業の死を遂げると、呉の行く末を心配した孫堅の未亡人(孫策・孫権の母)は張昭(ちょうしょう)と董襲を呼び出して相談します。この時に、董襲は呉が孫堅、孫策のならした堅い地盤の上に武将は忠臣ばかりで、民は服している事や、孫権の徳の高さなどを評価し、少しも心配は要らないと大言壮語したと伝えられています。三国志演義では、周瑜が引き受けた役回りは史実では董襲がやっていたのです。

 

孫権に攻められ戦死する黄祖

 

西暦208年、孫権の下で董襲は周瑜、呂蒙らと共に孫堅の仇である黄祖を攻めます。しかし、黄祖は戦上手でした、呉の上陸を阻止すべく二隻の蒙衝(軍艦)を横に並べ、石の錨で船を固定し蒙衝に千人の弓兵を乗せ雨のように矢を降り注がせます。

 

凌統

 

呉は大苦戦を強いられますが董襲は淩統(りょうとう)とともに先鋒を務め、それぞれ決死隊を率い事態の打開にあたる事になります。董襲は、強力な矢の攻撃を防ぐ為に鎧を二重につけ、大型の船に乗って蒙衝に衝突。そして、すかさず川に飛び込んで敵の蒙衝の底に潜り込んだのです。

 

さらに川底に潜った董襲は錨を固定していた2本のロープを切断、コントロールを失った蒙衝は川の流れに逆らえずに流れ黄祖軍の防御が崩壊します。こうして呉軍は黄祖を破り斬ることができ、勝利の宴席で孫権は董襲の功績を大いに称えたそうです。そんな董襲の最後も壮烈で、曹操が濡須を攻めたとき、董襲は、孫権に従い水軍の指揮を執っていましたが、暴風雨で五楼船は沈没寸前、部下は、董襲に脱出を勧めますが、董襲は船長として断じて脱出を拒否しついに船と運命を共にして溺死してしまったのです。

 

 

 

呉の十二神将8 スターだがトラブルメーカー 甘寧興覇(かんねい・こうは)

甘寧 ゆるキャラ 三国志

 

甘寧は呉随一のメジャー武将です、元は巴郡の人で、若い頃から親分肌で、町の不良少年が自然と集まるようなカリスマ性を持っていました。蜀で劉焉(りゅうえん)が死んだ頃、後を継いだ劉璋(りゅうしょう)に対して、沈弥(ちんや)という武将と共に反逆するも勝てずに逃亡、荊州で劉表(りゅうひょう)を頼るも、粗暴な性格から嫌われて使われず、呉に流れようとしますが、途中を支配していた黄祖(こうそ)に阻まれて行けず、やむなく黄祖の武将になります。

 

兵士 朝まで三国志

 

その間、父の仇と黄祖に攻め込んできた孫権を破るなど手柄がありますが、黄祖は器量が小さく、甘寧が手柄を立てると、より疎んじていったので、甘寧は愛想を尽かして、部下を引き連れて呉に投降し、孫権の配下になりました。

 

凌操(りょうそう)

 

その時点で、呉の凌操(りょうそう)を戦争で殺していたので、息子の凌統に激しく恨まれています。

 

三国志に出てくる海賊達と甘寧

 

208年には、早速、返す刀で黄祖討伐に参加して、水軍で黄祖を翻弄して破り、赤壁の戦いでは、周瑜に随行して烏林で火攻めに敗れた曹操軍の敗残兵を、斬り殺しまくり、南郡では曹仁(そうじん)を攻撃、この時には、夷陵城を攻略しますが、逆に曹仁に城を包囲されて孤立します。

 

甘寧 裏切る ゆるキャラ

 

しかし、少しも参ったと言わず、部下と談笑しながら籠城を耐え抜いたので、やがて周瑜の援軍により、曹仁は包囲を解く羽目になります。214年には、揚州の防衛強化を図り、朱光(しゅこう)を皖(かん)城に置いた曹操の機先を制してここを攻撃し、たった数時間で朱光を捕えるという電撃戦を成功させます。

 

劉備と孫権

 

翌年には、荊州の領有で険悪になった劉備(りゅうび)と孫権の間で、魯粛(ろしゅく)に従い、劉備の忠臣、関羽(かんう)と睨みあいになりますが、3万を号する関羽の軍勢の渡河を千人足らずの軍勢で阻止するなど、戦の達人ぶりを見せつけました。

 

疫病が流行った村

 

翌年の第二次合肥の戦いでは、十万の大軍で攻めよせたものの、疫病の流行で、退却を考え始めた孫権に、魏の張遼が逆攻撃を仕掛けますが、甘寧は、凌統と共にこれを引き受けて存分に暴れまわり見事に孫権を退却させます。この時、あまりの事に音楽を忘れていた軍楽隊に甘寧は檄を飛ばし

 

「お前ら、ボケッとしくさらんと、景気のいい曲をかまさんかィ!!」と怒鳴りつけたので、軍楽隊は必死に演奏し、呉軍は士気を振るって、持ちこたえたと言われています。

 

 

甘寧に殺されかける料理人

 

甘寧は、このように戦の達人でしたが、一方では殺人を好む残忍な面もあり手放しで賞賛できる人ではありませんが、その功積は、蜀の関羽、魏の張遼に勝るとも劣らないでしょう。

 

 

 

呉の十二神将9 忍耐強い常識人武将 凌統公積(りょうとう・こうせき)

凌統

203年、父の凌操が孫権の黄祖攻めに従軍して戦死した為に、15歳で、その兵を引き継ぎます。206年、上司の督の陳勤(ちんきん)が酒宴で好き勝手に振る舞ったので、真面目な凌統は、これを注意しますが、逆恨みした陳勤は皆の前で凌統の父の凌操を罵倒します。

 

 

凌統

 

父を誇りに思っていた凌統は、悔し涙を流しながら我慢しますが、陳勤は酒宴が終わってまで追いかけてきて凌操を罵倒したので我慢できず、凌統は、カッとなり、これを斬殺してしまいました。

 

戦で活躍する凌統

 

目撃者はいなかったのですが、これを恥じた凌統は、せめて戦死して、罪を償おうと山越討伐で危険な前線に志願しますが、死を覚悟した凌統に、山越民がビビってしまい、かえって手柄を立ててしまいます。思い悩んだ凌統は、ついに孫権に自首、本来なら処刑ですが陳勤の酒癖の悪さと凌統の働きが素晴らしい事から特別に許し、手柄で償うように諭されます。

 

愛馬に乗り敵を粉砕する張遼

 

215年、第二次合肥の戦いにおいて凌統は右部督となり、張遼の奇襲により敵に包囲され絶体絶命となった孫権を、腹心の部下三百名を率いて救出し、さらに孫権が逃れたのを確認すると、再び戦場に戻り数十人の敵を討ち取ります。いよいよ退却の時には部下もいなくなり、後方の橋も落ちていたので、凌統は鎧を着たまま川に潜って泳ぎ帰還しました。満身創痍で帰還した凌統以外には、帰る部下はなく、凌統はハラハラと涙を流しますが孫権は、自ら凌統に薬を塗ってやり、「死んだ者は還らないが、ワシにはお前がいる、それで十分だ」と言って凌統の健闘を讃え、これを慰めました。

 

甘寧と凌統と呂蒙

 

呉軍一の勇者で常識人の凌統ですが、父を戦場で射殺した甘寧だけは、生涯許さず、酒宴で一緒になった時には、お互いが武器を取って殺し合いに発展しそうになり危うく呂蒙が止めた程でした。

 

 

呉の十二神将10 曹丕を騙した剛胆な名将 徐盛文嚮(じょせい・ぶんきょう)

徐盛(じょせい)呉の将軍

 

徐盛は、徐州瑯邪郡の人ですが、世が乱れると、呉に逃れてきました。度胸と義に厚い事で知られ、孫策の時代に別府司馬になり別働隊500名を率いて柴桑県に駐屯し、黄祖の攻撃に備えます。

 

双流星を振り回している徐盛

 

おりしも、黄祖の息子で、禰衡と仲が良い事で知られた黄射(こうしゃ)が数千の軍勢で攻めてくると、徐盛は200名で迎撃して、これを撃破。その際に、二度と攻めて来ないように、黄射軍をギッタンギッタンのメッタメタに痛めつけたので、黄射は二度と来なかったようです。

 

この功績により、校尉となり、蕪湖県令に昇進します。この頃、近くの宣城に駐屯していた蒋欽の部下を軍令違反で処罰しようとしますが、蒋欽の功績を重んじた孫権に拒否され通りませんでした。徐盛は、いずれ蔣欽に報復されるのではと疑心暗鬼でしたが濡須口の戦いで蒋欽の指揮下に付けられた時、蒋欽が私怨に捉われず、徐盛を公正に評価したので徐盛は感謝し、蒋欽に心服したと言われます。

 

また、孫権の子飼いの周泰についても、当初はイノシシ武者程度にしか考えず周泰の配下に自分がつけられた時には、朱然と共に悪態を突き従いませんでしたが、孫権に説得されて、周泰を見直し以後は従うようになります。このように徐盛は、偏見が強い所がありますが、それが誤りと分ると、すぐに正す事が出来る柔軟性がありました。

 

濡須の戦いでは、強風で船が流され、魏軍のど真ん中で船が立ち往生する事もありましたが、絶望する呉将の中で徐盛だけが、意気盛んで、逆に魏軍に攻撃を仕掛けて打ち破り、怯えた魏軍が兵を引き、やがて天候が回復したので、徐盛は、すぐに船に飛び乗り無事に呉の領域に引き返す事が出来ました。このように徐盛は沈着冷静であり、諸将を励まし危機を切り抜ける、将軍の器を持っていたのです。

 

魏の皇帝になる曹丕

 

 

西暦224年には、呉と蜀が夷陵で争っている隙を突いて、曹丕(そうひ)が10万の大軍で南下してきました。これを見た徐盛は一計を案じて、巨大な偽の城壁を築き、意外に呉の勢いが盛んな事にビビった曹丕が兵を引き返すと、その背後から襲いかかって、散々に撃破しています。

 

 

呉の十二神将11 大酒飲みで粗暴だが頼れる男 潘璋文珪(はんしょう・ぶんけい)

潘璋

 

藩璋は孫権がまだ陽羨(ようせん)県長だったときに、目通りを求め仕えています。この潘璋の性格は粗暴気ままで大酒飲みで、若い頃は貧乏だったのに平気でツケで酒を飲み「金は出世払いで返す」と大言壮語して払いません。しかし、その天衣無縫な性格を孫権に愛され、募兵の任務を担当し、集まった兵達の部将にそのまま採り立てを受け、後に山越征伐で功績を挙げ、別部司馬となり別働隊を率いて活躍します。

 

潘璋

 

こんな藩璋ですが、法律は厳格に守る性格の律義さはあり、呉の中央市場の取締役を任されたときは、市場で犯罪がなくなる程でした。これにより評判を高めて豫章郡の西安県長となりました。厳しく県を取り締まったので、かつては、荊州の劉表の配下が定期的に略奪に来ていたのが、潘璋の着任後はピタリと止み静まり返ってしまう程でした。第二次合肥の戦いでは曹操軍の張遼が、10万の呉軍に対して、ブチ切れ攻撃を決行、たった800名ながら、虚を突かれた呉軍では、陳武が戦死、宋謙(そうけん)や徐盛の軍も敗れます。

 

怯えた呉兵が逃げ出そうとすると、潘璋は後方から馬を駆って前線に赴き、逃げる兵士を斬りまくり、叱咤激励して兵を支え、戦線の崩壊を防ぎました。この功績が孫権に認められ偏将軍となり、百校の任務を任され半州に駐屯、甘寧が死去すると、その軍の指揮も任されます。

 

219年の関羽討伐では、朱然とともに関羽の退路を断つ任務を受け、臨沮(りんそ)へ赴き夾石(きょうせき)へ軍を進めて、部下の馬忠(ばちゅう)が関羽、関平(かんぺい)、趙累(ちょうるい)を生け捕りにする功績を挙げたため、固陵太守を任され、さらに振威将軍、溧陽(りつよう)侯に封じられます。藩璋は常に部下は数千位ですが、部下に愛され、その仕事は一万人の兵にも劣らない程だったようです。

 

陸遜

 

222年、夷陵の戦いにも参戦し陸遜(りくそん)と協力して劉備を撃破します。

 

馮習

 

この時にも部下が蜀の次世代を纏める存在だった将軍、馮習(ふうしゅう)を討ち取り、その他敵将や兵士の多くの首を取ったので、平北将軍、襄陽太守に昇進し、孫権が229年に帝位につくと右将軍に任命されています。

 

潘璋

 

そんな潘璋ですが、金銭に強欲な所があり、晩年は奢りが酷くなって法令違反などをちょくちょく起こし、苦情は孫権にも上がりますが、孫権は、藩璋の功積を惜しんで処罰しませんでした。

 

 

 

呉の十二神将12 最後まで呉を支えた忠臣 丁奉承淵(ていほう・しょうえん)

丁奉(ていほう)

 

丁奉は、12人の中では一番、年が若く孫権の時代から仕えています。大変な勇猛さで名を馳せ小部隊を率いる立場となり、呉の名将、甘寧陸遜、潘璋の指揮下で着実に敵将を討ち取り軍旗を奪って武功を挙げました。かなり無茶をしたようで負傷も多かったようですが、その甲斐あり、若くして偏将軍に昇進しています。

 

孫権の跡継ぎ9歳の孫亮

 

孫権が死去して、末子の孫亮(そんりょう)が即位すると、冠軍将軍、都亭侯へ封じられます。西暦252年、魏が呉を併呑するため攻勢をかけてきた時、魏の胡遵(こじゅん)諸葛誕(しょかつたん)率いる七万の軍を、諸葛恪(しょかつ・かく)の指揮下で東興において迎え撃ちます。

 

諸葛恪

 

当時、重臣、諸葛瑾の息子の諸葛恪の知名度は絶大で、他の部将達が諸葛恪自ら出陣した以上、魏軍は恐れをなして引き揚げていくだろうと楽観ムードでしたが、丁奉はただ一人その見方に異議を唱え、戦う覚悟を持つよう主張しました。事実、魏軍は、諸葛恪が出てきても退却せず、丁奉の見通しは証明されます。

 

諸葛恪が軍を上陸させると、丁奉は唐咨(とうし)呂拠(りょきょ)留賛(りゅうさん)らと共に山岳地帯を通って西方に向かい上流に出ようとします。丁奉はそれぞれの軍団の動きが遅いことを見て取ると、敵に先手を取られないよう迅速に行軍するため、味方には別行動をとらせ、一人で三千の兵を率いて敵陣に猛進撃を開始しますが、強い北風が吹き、目的地に辿り着くまで二日を要しました。

 

丁度降雪しており、魏軍は近くに呉軍が来ているなどとは夢にも思わず、酒宴を開き油断しきっていました。丁奉は偵察に出て魏軍の前衛が薄いのを見て取ると、攻撃のチャンスと見て、兵士を鼓舞し、鎧を捨てて冑に剣だけを持たせて奇襲をかけます。

 

魏軍は仰天して迎撃も出来ず、丁奉に前衛陣地を散々に撃破されます。その時、後続の呂拠らが遅れて戦場に到着し、ともに攻撃して大破させ、戦いは呉軍の大勝となり、功績によって丁奉は滅寇(めっこう)将軍に任じられ、都郷侯に封じられました。

 

このように丁奉は、ただ言われた通りではなく、戦況を分析して、独自の判断で兵を動かせる上に、行えば大勝利する有能な将軍だったのです。ただ、丁奉の時代には、それ以前の呉と違い、帝位が安定せず何度も皇帝が変わる時代でした、そこでも丁奉は、何とか呉を存続させようと、難しいバランスを泳ぐようになります。

 

 

専横を極める孫綝

 

孫亮を差し置いて勢力を振るう孫綝(そんちん)は、自らを誅殺しようとした孫亮を廃位して今度は孫休(そんきゅう)を即位させますが、孫休は、このままでは、いつかは自分も孫亮の二の舞と恐れ、孫綝を葬ろうと考え腹心の張布(ちょうふ)と万全の策を練ろうとします。

 

張布は、策謀に優れている丁奉を計画に加えるよう推挙したので、孫休は丁奉を呼び寄せ、孫綝打倒の意向を打ち明けました。丁奉は承諾し、孫綝一族の力を警戒し、祭りの日に群臣達が集まる機会を利用し、孫綝を捕らえて誅殺するよう進言しています。

 

孫休はこの計画を容れ、孫綝を誘き出し、張布と丁奉にその場で左右の者へ目配せをさせ、孫綝を斬らせています。しかし、それより数年前には、丁奉は、孫綝と対立した呂拠を誅殺しているわけで何度も支配者が変わる呉の宮廷で、丁奉が苦労していた様子が見えます。孫休が死去すると、万彧(ばんいく)の勧めで孫皓(そんこう)の擁立が持ち上がり、丁奉も濮陽興(ぼくようこう)達と図ってこれに同意します。こうして孫皓が即位すると丁奉は右大司馬、左軍師になります。

 

孫晧(孫皓)

 

ですが、孫皓は暴君でした。見かねた陸凱(りょがい)が孫皓の廃位を計画すると、丁奉も丁固と共に加担します。孫皓が廟に詣でるときを狙っていましたが、警護役を務める留平(りゅうへい)の協力が得られず未遂に終わりました。丁奉は、ついに死ぬまで孫皓を排除できず、孫皓も丁奉が自分を嫌っている事を承知していましたが、数少ない呉の元勲である丁奉を斬り、反対勢力を勢いづかせるのは得策ではないと考え、他の重臣は殺しても、丁奉は敢えて処罰しませんでした。

 

幕末 臨終のシーン 亡くなる(死)モブ

 

271年、最後まで呉の安定を考えた丁奉は病死しました。

 

普に降参する孫皓

 

呉が滅ぶのは、それから僅か9年後の事でした。

 

 

三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

いかがだったでしょうか?呉の歴史を彩る12人の神将達、その活躍は、魏や呉の五虎将軍に勝るとも劣らない部分があります。なんせ五虎将の2倍以上ですし、魯粛や呂蒙や陸遜や周瑜を除いても、この厚みがあるんですから、これは十分に誇れると思いますよ。本日も三国志の話題をご馳走様・・

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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