蜀の優れた将軍達は五虎将軍として名を連ねております。
また魏にも優れた将軍達は五大将軍として(ほんとは六大将軍)
現在まで有名になりました。
では呉には、なぜ呉の五虎将軍などと呼称した
将軍達が存在しなかったのでしょうか
この記事の目次
蜀の五虎将軍が生まれた理由
蜀の五虎将軍は正史「三国志」に記載されているわけではなく、後世に
作られた創作の将軍位です。
この将軍の位が生まれたきっかけは、関羽・張飛・趙雲・黄忠・馬超が
正史「三国志」で同じ列伝に記載されていた事が原因で、
後世三国志を面白くしようとした編集者が
五虎将軍を誕生させたのです。
魏の五大将軍が生まれた理由
魏の五大将軍は蜀の五虎将軍に対抗するために生れた将軍の位です。
魏にも張遼を筆頭に、徐晃・張郃・于禁・楽進が同じ列伝に記載しております。
こうして魏の五大将軍が生まれるのですが、
実はこの五人の列伝の中にもう一人記載されています。
その名は朱霊です。
そのため彼を含め六大将軍として言う人もおります。
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呉には五人が同じ列伝に記載はないの?
さて今回の焦点である呉ですが、正史「三国志」の「呉書」の中に
五人にまとめて同じ列伝に記載されている将軍達が居ました。
鍾離牧(しょうりぼく)・賀薺(がせい)・全琮(ぜんそう)・
周魴(しゅうほう)・呂岱(りょたい)の五人が正史「三国志」
の「呉書」で同じ列伝に記載されていた五人です
しかし、この五人蜀の五虎将軍や魏の五大将軍と比較すると知名度や
何をした将軍なのか全くわかりません。
さらに周魴に関しては将軍と言うよりも政治家として活躍した人です。
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では呉には優秀な将軍はいないの?
呉には優秀な将軍が居なかったわけではありません。
四天王や赤壁の戦いで火計を曹操軍に仕掛け、
大勝利をおさめた大都督周瑜。
さらに夷陵の戦いで復讐に燃える劉備軍に大勝利をおさめた
陸遜など優れた将軍はいます。
ただ同じ列伝に記載されていないだけです。
そんな呉ですが、正史「三国志」の呉書に十二人の将軍がまとめて同じ列伝に
記載されておりました。
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呉の優れている将軍十二人とはいったい誰?
正史「三国志」に記載されている十二人の将軍は
甘寧・凌統・徐盛・潘璋・丁奉の十二人が記載されておりました。
この十二人が蜀の五虎将軍や魏の五大将軍に匹敵する将軍です。
強いて言うなら呉の十二人将と言うことになりますね。
三国志ライター黒田廉の独り言
正史「三国志」を作った陳寿は元々蜀の臣下でした。
そのため蜀の歴史が記載されている「蜀書」には特別な思い入れがあったと思います。
そのため蜀の優れた将軍である関羽・張飛・趙雲・黄忠・馬超を同じ
列伝に記載したのだと思います。
また魏については陳寿が仕えた晋の国家が魏の跡を継いでいる事から、
少し魏の事を持ち上げながらもしっかりと事実を記載し「魏書」を編纂。
さらに蜀と同じように優れていた将軍である張遼・徐晃・張郃・楽進・于禁らが
まとめて記載されたのではないでしょうか。
では「呉書」ですが優れた将軍を五人に一纏め(まとめ)にしなかったのは
なぜなのでしょうか。
私の私見ですが、陳寿と呉が深くかかわりが無かった事が、原因なのではないでしょうか。
陳寿の生まれは蜀です。
さらに彼が三国志を執筆している時には、呉は滅んでおり、
晋に仕えたとき元呉の将軍や文官達と関わる事があったのかもしれません。
それでも呉に深い思い入れが無かったため直接関わりがなかったので、
蜀や魏の優秀な武将を五人一纏めにするといった部分を意識したり
していません。
このような意味で蜀や魏のような呉将軍の元になるような
列伝の作り方をしなかったのだと思います。
今回のお話はこれでおしまいにゃ。次回もまたはじめての三国志でお会いしましょう。
それじゃまたにゃ~