三国志で一番有名な戦いが「赤壁の戦い(せきへきのたたかい)」です。
赤壁の戦いは、魏(ぎ)、呉(ご)、蜀(しょく)ができる前に、
曹操(そうそう)軍と劉備(りゅうび)・孫権(そんけん)連合軍が
長江の赤壁で繰り広げた歴史の流れを左右する戦いです。
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この記事の目次
赤壁の戦いまでの経緯
黄巾の乱(こうきんのらん)から始まった三国志は、
曹操が中国の北側を平定し圧倒的な勢力へと成長していました。
その勢いは留まることを知らず、劉表(りゅうひょう)が治める荊州攻略のために兵を進めていました。
一方、劉備は未だに拠点を持っておらず、荊州の劉表に身を寄せていました。
しかし、その劉表が死んだことにより、荊州は劉表の後継者である劉琮(りゅうそう)へ渡りました。
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劉琮は曹操に降伏し荊州は落ちる
ところが、劉琮は曹操にあっさりと降伏し、荊州は曹操の手に落ちたのです。
曹操が荊州を手に入れたことにより居場所を失った劉備は、
曹操軍の追撃をかわしながら孫権軍と同盟を結びます。
同盟の使者として、孫権への交渉に当たったのが諸葛亮(しょかつりょう)です。
時を同じくして荊州の水軍を手に入れた曹操は、長江にその水軍を布陣しました。
その数は、なんと20万。
劉備・孫権連合軍は、5万で圧倒的な戦力差がありました。
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赤壁の戦い前哨戦:孫権の説得
逃げ場のない劉備軍が徹底抗戦に出るのに対し、
孫権軍は曹操軍の圧倒的な戦力差に抗戦派と降伏派に分かれて壮絶な論戦が繰り広げていました。
そんな孫権軍を抗戦へ導いたのが、孫権に仕えていた周瑜(しゅうゆ)と同盟の使者である諸葛亮です。
周瑜は、次の様に曹操軍を冷静に分析しました。
「これまで水軍が無かった曹操軍は水上での戦いに慣れておらず、慣れない土地で疫病が発生する。
また、曹操軍の大半は、戦いのたびに吸収合併した兵士がほとんどであり、
まとまりが無い上、曹操を信頼していない。
そのため、慣れてしまう前の今であれば勝機がある。」
これに説得された孫権軍も、赤壁の戦いに参戦することになります。
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赤壁の戦い前哨戦:水軍の指揮官の排除
戦いの準備を進める周瑜がまず取り組んだのは、
曹操軍の水軍を指揮する蔡瑁(さいぼう)の排除でした。
蔡瑁は水軍の扱いに長けて武将で、荊州が曹操に降伏したことにより、
曹操水軍を指揮する立場になった人物です。
周瑜は蔡瑁が裏切っていると偽の情報を流し、曹操自らの手によって処刑させます。
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赤壁の戦い前哨戦:諸葛亮の排除
また、劉備・孫権連合軍にも不穏な動きがあり、
諸葛亮と周瑜は表面上では協力体制にありましたが、
周瑜は隙を見て諸葛亮を排除しようと画策していました。
その代表的なエピソードが、「10万本の矢」で、
周瑜が諸葛亮に対し10日以内に10万本の矢を集めるようにお願いし、
諸葛亮が3日で用意することを約束したもので、準備できなければ諸葛亮を処刑するというものです。
諸葛亮を排除したい周瑜は、矢を作らせないように邪魔をしますが、
それを見抜いた諸葛亮は別の方法を使って矢を集めます。
諸葛亮は、霧の多い時間帯に船で曹操軍に近づき、
襲撃と見せかけて矢を放させて、その矢を奪ったのです。
結果として、10万本以上の矢を手に入れ、周瑜は諸葛亮の排除に失敗しました。
こうして、それぞれの思惑を含んだまま、赤壁の戦いへと向かっていきます。
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赤壁の戦い
赤壁の戦いで劉備・孫権連合軍が勝つためには、
曹操軍の船を繋ぎ、火を放ち、火を広げることが必要になります。
当時、まだどこの軍にも所属していなかった龐統(ほうとう)は、
曹操軍が船に慣れておらずひどい船酔いに悩んでいる様子をみて、
船を繋ぐようにアドバイスをします。
これにより船の上でも、陸地と同じように動けるようになり状況が改善します。
実は、これこそが劉備・孫権連合軍の策略だったのです。
これにより見事、船を繋げることに成功しました。
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呉の猛将・黄蓋が曹操に寝返る
その後、孫権軍の武将である黄蓋(こうがい)が曹操に寝返ります。
これは、曹操軍に対し何もしない周瑜を黄蓋が罵倒したため、周瑜が黄蓋を鞭打ちにしたからです。
しかし、黄蓋の寝返りは作戦の一環であり、
曹操軍の陣地から放火するための潜入だったのです。
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赤壁の戦い・東南の風
これで、2つの条件を満たしたのですが、
最後の条件である火を広めるための「風」が最大の問題でした。
長江は、曹操軍から劉備・孫権連合軍の方に向けて、風が吹いています。
この状態で、曹操軍に火を放つと劉備・孫権連合軍に向けて火が移動していきます。
逆方向の風が吹かなければ、劉備・孫権連合軍の勝利はありません。
そこで、諸葛亮が逆風を起こすために天に祈りを捧げ、なんと逆風を吹かしてしまうのです。
実は、冬至の前の長江はこの逆風が吹くことがあり、諸葛亮はこれを利用したのです。
しかし、それ自分の能力として見せつけるために、わざと祈りを捧げたのでした。
これを見た周瑜は、諸葛亮をより危険視し暗殺に向かいますが、
間一髪のところで諸葛亮に逃げられます。
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曹操軍は火の海になり壊滅状態
火がはなたれた曹操軍は、火の海になり壊滅状態になりました。
その中から、命からがら逃げだした曹操は、さらに肝を冷やします。
なんと曹操の逃げる先々に、劉備軍が待ち構えていたのです。
そして、ついに曹操は劉備軍の関羽によって、追い詰められてしまいます。
しかし、関羽は以前に曹操に世話になっていたため、曹操を倒すことができず逃がしてしまったのです。
これにより、曹操は逃げ延びることができたのでした。
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赤壁の戦いが与えた影響
赤壁の戦いにより壊滅した曹操軍は、
その被害を立て直すために積極的な軍事行動がとれなくなりました。
そこを孫権軍が荊州の一部である南郡に侵攻し、これを攻略します。
その間に、劉備軍は荊州の南部を平定し、曹操軍は荊州の大部分を失ったのでした。
これにより荊州は曹操軍、劉備軍、孫権軍が入り乱れた状態になり、長い間の係争地となります。
その後、群雄割拠の時代が終わり、魏、呉、蜀が建国されていきます。
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三国志ライター黒太子の独り言
赤壁の戦いは、魏、呉、蜀ができる前の大きな戦いです。
もし、この戦いに曹操軍が勝ってしまうと、
三国志が存在せず、中国は曹操によって統一されていたかもしれません。
つまり、この戦いに劉備・孫権連合軍が勝利したことで、
三国志として心躍る武将たちの活躍を楽しむことができるのではないでしょうか。
そう思うと、完全に不利な状態から勝利を勝ち取った、劉備・孫権連合軍には感謝したいです。
レッドクリフあらすじ
三国時代の中国。漢の丞相の曹操(のちの魏の礎を築いた)は、北部を平定した後、南部も制圧するために兵を進める。その目的は、天下統一に邪魔な劉備・孫権の抹殺だけでなく、今は周瑜の妻となった天下一の美人小喬の奪取にもあった。荊州にいた劉備軍は南下して軍を立て直そうとするが、途中の当陽県長坂にて追いつかれ、敗走する。
夏口へ逃げた劉備は、部下の諸葛亮(孔明)の提案に従い、孔明を孫権(のちに呉を建国)のもとへ派遣する。孔明は孫権の総司令である周瑜と意気投合し、2つの勢力は共に曹操と戦う同盟を結ぶ。孫権は数万の軍勢を派遣し、劉備軍とともに長江の赤壁付近で曹操軍と相対し、両者互いに決戦のために水軍と陸軍を動かすのだった。引用元:wikipedia レッドクリフ
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