歴史の裏話って面白いですよね?
漫画や映画や小説では、当たり前のように思われている事実が当たり前ではなかった!
こういう話は、固定化した歴史上の人物像に改定を求め、古臭いイメージから解き放ち、新たな魅力を見出してくれたりします。例えば、三国志では忠臣扱いの周瑜。彼は自分より格下の孫策になぜ仕えたのでしょう?
なんで独立して天下を狙おうとしなかったのでしょうか?
この記事の目次
周瑜はどうして独立しなかったのか?ズバリ
では、いつものように、長い記事を読む時間がない読者の皆さん向けに、どうして周瑜が呉の忠臣で終わり独立しなかったのか?についてズバッとかいつまんで説明します。
1 | 周氏は揚州盧江に地盤を持つ名族で三公を輩出 |
2 | 当主の周暉が董卓に危険視され殺害。 周氏の勢力は後退。 揚州で支配者になった袁術に周氏は従属する。 |
3 | 袁術に孫堅の家族の世話を頼まれ周瑜と孫策は親友となる |
4 | 周瑜が財政的に窮乏。 魯粛から穀物倉の援助を受ける |
5 | 孫策が袁術から独立すると周瑜は魯粛を連れ同盟者として参戦 |
6 | 江東を制覇した孫策が暗殺され孫権が後を継ぐと疎遠になる |
7 | 赤壁前夜、魯粛から孫呉への協力を依頼される。 周氏は後漢の名家であり曹操を成り上がりと嫌っていたので 魯粛の勧めに従い同盟参戦し、赤壁で曹操軍を撃ち破る |
8 | 呉と共闘して天下統一を意図するが矢傷が悪化し病死 |
9 | 周瑜が呉の忠臣というのは江表伝や呉書の創作 |
このように周氏は元々、董卓に恐れられる程の地盤を盧江に持ちましたが、当主が董卓に殺害される不幸があり勢力が後退。単独で覇を唱えるのが不可能になり袁術に従属。
その後袁術から独立した孫策と同盟して江東に覇を唱えますが、孫策の死により同盟は解消されます。
しかし、共通の脅威である曹操の侵攻に魯粛を介して孫権と同盟し、水軍を用いて曹操軍を撃退、
いよいよ益州に覇を唱えようとしますが樊城攻めで受けた矢傷が悪化して病死しました。以下では、周瑜が独立しなかった理由についてより詳しく見ていきます。
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董卓を恐れさせた周氏
周瑜の家系は従祖父の周景、そして周景の子周忠が続けて三公の大尉に上るなど名家です。
周忠の子、周暉は洛陽令の頃、董卓の専横を嫌い官を辞して故郷の盧江に帰り、弟と共に人物を優遇したので、江水と淮水の間で勢力は盛んになり、周暉の馬車には常に百余りが付き従う程でした。
ところが周暉は洛陽で帝が崩御したと聞き、洛陽に残る父の周忠に善後策を相談しようと上京した所で、周氏を危険視する董卓に捕らえられ殺害されました。
これにより周氏の勢力はガタ落ちし、その後、揚州を支配した袁術に従属します。袁術は、部将孫堅の家族の世話を周氏に命じ、ここで屋敷を提供したのが周瑜の家で、この縁で周瑜と孫策は断金の交わりを結ぶ事になりました。
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財政的に窮乏し単独で戦えない周瑜
袁術に従属した周瑜ですが、周氏の勢力後退は深刻で一族郎党を養う資金にさえ困ります。そこで金策に出た周瑜に素封家の魯粛が穀物倉の1つをプレゼントしました。周瑜は、この事を終生の恩義とすると共に魯粛との交流を結びます。
そんな折に、孫策が力をつけ袁術から離脱して独立し劉繇を破って江東を落とそうと画策。周瑜は魯粛を強引に誘い、断金の交わりを奇貨として同盟軍として加わります。本当なら、周瑜単独で覇を唱えたい所ですが、衰えた周氏の勢力では難しいので孫策とくっついて、後で取り分を得ようという事なのでしょう。
周瑜の功績は目覚ましいのですが、途中で袁術に呼び戻され将軍に任命されます。しかし、袁術には先がないと見た周瑜は「居巣の県長になりたい」と嘘をいい、そのまま赴任しないで孫策の下に逃げていきました。
ここで周氏は袁術に従う派と孫策に従う派に二分したようで、結果的には孫策に組した周瑜が勝組になります。
何故か盧江に出される周瑜
功績抜群の周瑜ですが、江東を制覇した孫策からは意外な命令が下ります。周瑜の声望が盧江に著しいとして、呉から出して牛渚の備えとしたと言うのです。
そして、その後は周瑜を別働隊のようにして扱い、江夏太守として荊州に攻め入らせ、廬江の皖を落とした時に、美女として名高い大喬・小喬を得て大喬は自分が娶り、小喬は周瑜に娶らせています。
周瑜の声望が盧江に著しいのは、周瑜が盧江の名族だから当然です。これは、孫策が命じたのではなく同盟相手の周瑜が「平定作業も一段落したし、俺は地盤の盧江に戻り孫策をサポートしよう」と言い出した結果ではないでしょうか?
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孫権の後見人ではない周瑜
西暦200年、孫策は許貢の食客に襲われ重傷を負い傷が元で死亡。弟の孫権が後を継ぎます。
悲報を聞いた周瑜は兵を率いて喪に赴き呉に留まり、中護軍として長史の張昭と共に衆事を取り仕切ったとあり、いかにも周瑜の忠臣ぶりが見えるようですが、兵を率いてという表現が引っ掛かります。
これは、孫策の死により呉が動揺し、政権がどう転ぶか分からないので、少なくとも後継者の孫権の統治が安定するまでは中護軍として動揺する豪族に睨みを効かせて置こうという措置であるようにも取れます。
そして、決定的な事としては、孫策伝で孫権の事を託されたのは張昭だけであり、周瑜は含まれていないのです。
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呉の国内問題に周瑜は干渉せず
こうして孫策の喪に駆けつけて後、周瑜伝では6年間の空白が生じています。ではこの間、呉では何事もなく平和だったのか?と言えばそうではなく、呉主伝では、孫権が張昭を師としたり、魯粛や諸葛瑾を幕僚に加えたり、部隊を分けて山越を討伐させたり、黄祖を征伐させたりして、呂範、太史慈、韓当、周泰、呂蒙、程普、賀済、孫翊、孫瑜と様々な部将が動いていますが、周瑜の名前は一度出てくるだけです。
この、孫呉国内の重大事にどうして周瑜の名前がほぼ出て来ないのか?
それは、周瑜が孫権の配下ではない同盟相手であり国内問題で頼るという事が出来なかったからだと推測できないでしょうか?
西暦206年、周瑜は江夏太守黄祖が将の鄧龍を派遣して兵数千人を率いて柴桑に入らせたのを迎撃して撃破し、龍を生け捕りにして呉に送っています。
しかしこの手柄に対する孫権からの報酬はありません。
仮に褒賞がないのは周瑜が呉の為ではなく、自衛の為に龍を撃破したからと仮定すると、やはり辻褄が合ってしまうような気がします。
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赤壁では魯粛と一緒に蚊帳の外
三国志演義等では、赤壁の戦いで主役を張る周瑜ですが、実際には魯粛が孫権に説いて周瑜を呼び出すまでに鄱陽に居て蚊帳の外でした。これは孫権が周瑜を毛嫌いしているのでないなら、周瑜はどこまでも同盟相手であり呉の国内問題に関与させる事は出来ないという判断でしょう。
しかし、呉ではこぞって降伏論ですから、乱世で名を挙げたいクレイジーボーイ魯粛は気が気でなく「孫権が曹操に降れば盧江のあんただってひとたまりもない」と周瑜を焚きつけたのだと思います。
そうでなくても周瑜は、曹操を漢のウ〇チ!(周瑜伝)と呼ぶほど嫌っており、董卓同様に滅ぼすべき敵だと見做していて、開戦は必至でした。
つまり、孫権は劉備との同盟で赤壁に勝利したのではなく、周瑜&劉備と同盟を組んで、赤壁を乗り越えたと言えるのです。
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劉備は邪魔だから呉で引き取れ
孫権は周瑜を偏将軍に任命して南郡太守を領させます。
偏将軍に任命し南郡太守にしているので臣下であるとも言えますが、三国志の時代では袁紹が公孫瓚の怒りを解く為に公孫範に印綬を譲渡し渤海太守を譲ったり、陶謙が劉備を豫洲刺史に推挙したりしているので、必ずしも臣下に与えるとは限りません。
さて周瑜は、下雋、漢昌、劉陽と州陵を奉邑として与えられ江陵に屯拠しました。一方で劉備は左将軍・領荊州牧として江陵の対岸にある公安で治めていて、お互いが邪魔になっていきます。
周瑜は孫権に対し、劉備を呉で引き取り贅沢三昧させ骨抜きにし、関羽や張飛との関係を断つべしと進言していますが、これは要するに劉備がいると荊州に勢力が伸ばせないので、オタクで引き取ってくれないかと言っているようにも取れます。しかし、劉備は曹操の勢力を防ぐ為に必要であるとして孫権は受け入れませんでした。
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壮大な天下統一プランを立て没す
その後、周瑜は曹仁との戦いで受けた矢傷をおして孫権に対して、天下統一のプランを提示します。周瑜のプランでは、曹操は赤壁のダメージが大きくしばらくは呉を攻めないので、この隙に孫瑜と共に益州の劉璋を攻撃し張魯を平らげ、さらに涼州の馬超と同盟を結んで曹操を挟撃する準備を整えます。
その上で、益州を孫瑜に任せ、自身は孫権と襄陽を拠点にして攻めれば北方を定める事が出来るというのです。孫権はこのプランを許し、周瑜は江陵で準備を整え出陣しますが、矢傷が悪化して重体になり巴丘で死去しました。
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江表伝、呉書で歪められる周瑜
陳寿は周瑜伝を書くにあたり、韋昭の呉書を引き写して参考にしています。しかし、韋昭の呉書は孫権の時代から編纂を命じられたものであり周瑜が本当は独立したがっていたというのは孫権にとって黒歴史でした。
その為に周瑜の記述は歪められ、最初から孫権の忠臣であるかのように体裁が取られていきます。
さらに、裴松之が補った虞溥の江表伝は最初から周瑜が孫策の配下であるかのような記述になっていて、それらが群雄周瑜を孫権の忠臣へと変化させてしまったのです。
三国志ライターkawausoの独り言
周瑜伝を読んでいると、劉備に荊州南郡を任せられた関羽のように思えてきます。劉備とは同盟関係だが、国内問題や外交においては劉備の指図は受けない。
だから孫権から縁組を持ちかけられても断ってしまうし、独自に樊城を攻めてしまう孫策が没してから赤壁前までの周瑜や、赤壁以後の益州攻略プランを立てた周瑜も荊州南郡で独立した関羽と同じ雰囲気を感じてしまうのですが、いかがでしょうか?
参考文献:正史三国志 江表伝
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