吉川英治の小説の影響で、孔明の死後は、あっけなく終わる三国志。
ですので、三国志の最後は、司馬懿(しばい)の孫の司馬炎(しばえん)により統一されるという
事は知っていても、具体的なプロセスを知る人は案外少ないようです。
そこで、はじさんでは、三国志を知ったかぶりできる、孔明の死後から、
三国の統一までをポイントを押さえてザックリ紹介します。
この記事の目次
ポイント1 名君だった曹叡がいきなりオカシクなる
西暦234年、五丈原において、蜀の丞相、
劉備(りゅうび)の唱えた、後漢の復活は絶望的になります。
これにより、国力最強の魏の三国志統一が実現するかに見えました。
しかし、孔明の死で北伐の重圧から解放された魏の2代皇帝、
曹叡(そうえい)が突然にオカシクなります。
いきなり、巨大な宮殿の造営に乗り出し、民に重労働を課したり
兵士を一定数常備する為に、兵士の家柄同士の結婚を奨励し、
兵士以外の家に嫁いだ女性は離婚させて、再度、兵士の家に嫁がせるなど、
かなり強引な政策をします。
これにより孔明が死んだ、優位性は消し飛んでしまい、
魏の国力は疲弊するようになるのです。
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ポイント2 魏の没落と共に、司馬懿が実力をつける
そんな中、西暦238年、遼東の公孫淵(こうそんえん)が、
魏についたり呉についたりの綱渡りの外交をしながら、
最後は独立するという事件が起きました。
曹叡は、司馬懿(しばい)を鎮圧軍として派遣し、
司馬懿は鮮やかな手腕で公孫淵を撃破して凱旋します。
これにより、司馬懿の名声はさらにあがりますが、
その為に、司馬懿は、野心を疑われ警戒を受けるようになります。
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ポイント3 曹叡死去、曹芳が即位し、司馬懿は退けられる
西暦239年、晩年は残念だった曹叡が重病に罹り、危篤になります。
子供のいない曹叡は養子で幼い曹芳(そうほう)を立てて、
皇族の曹爽(そうそう)と、重臣の司馬懿を後見役にして、
力を合わせて国を盛りたてるように遺言します。
当初は、司馬懿を立てた曹爽ですが、取り巻きから、司馬懿の勢いを
排除すべきだと進言を受け、司馬懿は太傅(たいふ)という名誉職を与えられ、
政治からは遠ざけられ軍事長官のような地位に押しやられます。
しかし、今、騒ぐのは得策ではないと判断した司馬懿は、
あえて争わず、黙って、この人事を受け入れました。
権力を握った曹爽は、大した事のない人物で、取り巻きの人士を
要職につけて、贅沢の限りを尽くし、魏はバブリーで
腐敗した時代に突入してゆきます。
ポイント4 司馬懿、曹爽一派をクーデターで倒し権力を握る
曹爽は、皇族らしい典型的な坊ちゃんで、政治的には無能、
しかもお人よしなので、政治は、取り巻きが動かす事になりました。
しかし彼の取り巻きの何晏(かあん)や李勝(りしょう)は、
文学論を戦わすだけで、政治的な手腕も、軍事の才能もありませんでした。
次第に自分の人気が落ちてきたと感じた曹爽は、西暦244年、
突如、蜀攻めを敢行しますが、蜀の名将、王平(おうへい)に防がれて惨敗します。
これにより、さらに人気が凋落した曹爽に、司馬懿が牙を剥きます。
用意周到な司馬懿は、「すでに私は年老いてしまいました」とばかりに
隠居して、病に伏せる演技をします(まさに司馬懿の芝居)。
これに安心した曹爽は、西暦249年、取り巻きと皇帝、曹芳を連れて、
先帝、曹叡の墓参りに出て、都、洛陽を留守にしました。
二人の息子を伴い洛陽に入り、武器庫を襲って武器を得、
さらに、洛陽に残る郭(かく)皇后を兵で脅して、逆臣曹爽を排除する勅命を得ます。
これを高平陵(こうへいりょう)の変(へん)といい、
このクーデターで曹爽以下、その取り巻きも、すべて処刑され、
魏の実権は司馬懿に握られます。
ここで、事実上、曹操が興した曹氏の天下は終了しました。
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ポイント5 孫権、後継者問題でつまづき、多くの賢才を失う
蜀で孔明が死去し、魏では、司馬懿のクーデターが起きていたこの頃、
じゃあ、呉は万全だったのかというとそうではありませんでした。
孫権(そんけん)が、健康で長生きした結果、だれを後継者にするかで、
呉の家臣団が真っ二つに割れてしまったのです。
孫権が最初に皇太子としていた、孫登(そんとう)は、孫権より先に病死、
その為に、孫権は次の皇帝候補を孫和(そんわ)と孫覇(そんは)から選ぼうとします。
当初は孫和が後継者で優勢だったのですが、孫権が優柔不断で、
扱いに差をつけないので、家臣の抗争が激化、双方を貶める讒言が飛び交い、
嫌気がさした孫権は、孫和も孫覇も選ばず七男の孫亮(そんりょう)を
後継者にします、これを二宮(にきゅう)事件と言います。
孫和は廃太子になり、孫覇は自殺に追い込まれ、陸遜(りくそん)のような
重臣まで流罪になり、屈辱の中で陸遜は憤死します。
ここで大勢の賢才が巻き添えで死ぬ事になり、呉は大きく弱体化します。
西暦252年、孫権は死亡し、孫亮が即位しますが僅か10歳でした。
その為に後見人が立てられ、政治の実権は、後見人に指名された、
太傅で大将軍の諸葛恪(しょかつ・かく)が握ります。
ポイント6 諸葛恪、孫峻にクーデターを起こされ殺される
諸葛恪は、孔明の兄、諸葛瑾の息子ですが、幼い頃から利発で、
孫権にも可愛がられていました。
おりしも、魏は孫権の死につけこもうと、同族の諸葛誕(たん)が
呉に侵攻しますが、諸葛恪はこれを撃破して、名声を得ます。
ところが、諸葛恪は調子に乗って翌年、魏に攻め込んで、
合肥(がっぴ)新城で今度は大敗してしまいました。
これにより、求心力が低下した諸葛恪は、呉の豪族層を締めつけて
不満を抑え込もうとします。
これに反発した、孫峻(そんしゅん)が西暦253年にクーデターを起こし成功。
諸葛恪は暗殺され、孫峻は皇帝、孫亮の丞相になり呉の実権を握ります。
ポイント7 孫峻の後を受けた孫綝、皇帝孫休に誅殺
孫峻は、これと言った大志もなく、ただ権勢欲に取りつかれた男でした。
西暦256年、孫峻が死ぬと、弟の孫綝(そんちん)が、
後をついで独裁を引き継ぎます。
西暦257年、魏の重臣になっていた諸葛誕が、司馬昭の専横を恐れて、
呉に帰順しつつ、司馬昭に反旗を翻すと、孫綝はそれを援護しますが、
司馬昭の反応は早く、クーデターは失敗し、翌年、諸葛誕は戦死します。
これで、孫綝の影響力が低下すると、親政を開始していた孫亮は
孫綝を排除しようと動きます、ところが、それは孫綝にバレていました。
怒った孫綝は、孫亮を廃位して、孫権の六男の孫休(そんきゅう)を即位させます。
しばらくすると、孫綝の尊大な態度は、自分が据えた皇帝、孫休を殺して
自分が皇帝に即位しようと考える程になります。
孫休「冗談じゃねえや、てめえの勝手で俺まで殺されてたまるか」
こうして、孫休は、先手を打ち、孫綝を誅殺して皇帝の地位を守りました。
孫休により、ようやく安定した呉ですが、めまぐるしい政権交代の
傷跡は大きく、以前のような国力はありませんでした。
ポイント8 孔明の後継者が去り、蜀で孤立する姜維
西暦234年、志半ばで世を去った諸葛亮孔明ですが、
その後には、蒋琬(しょうえん)、費禕(ひい)、董允(とういん)のような
手堅い官僚が残っていました。
蔣琬は、晩年には北伐を再開しようとしましたが、周囲の反対が
根強く実行できないまま西暦246年に病死、蔣琬の後を継いだ、費禕は、
「諸葛丞相さえ、出来なかった魏の討伐が我々に出来るわけはない
堅く守って、魏の政変を待とう」という北伐慎重論でした。
一方の姜維(きょうい)は、熱心な北伐論者でしたが、
費禕は、姜維に1万以上の兵力を与えなかったので、
姜維は北伐を実現出来ませんでした。
しかし、西暦253年、費禕が魏からの投降者を偽る
郭循(かくじゅん)に刺殺され急死すると、姜維は軍事の全権を担うようになり、
対外的には、姜維、内政は陳祇(ちんし)が取り仕切る両頭体制になります。
姜維は、用兵に優れて、魏の王径(おうけい)を撃破して大勝するなど、
手柄を立てますが、魏の名将、鄧乂(とうがい」に歯が立たず、
西暦256年に段谷(だんこく)の戦いで記録的な大敗北を喫します。
内政を請け負った陳祇ですが、こちらも費禕には及ばず、
董允が押さえていた、宦官、黄皓(こうこう)の台頭を容認して結託します。
これにより、蜀は内部では宦官による腐敗、外部では、
姜維の北伐の失敗で、完全に追い込まれてしまうのです。
ポイント9 司馬師・昭兄弟、度重なる反乱を押さえて魏を呑みこむ
西暦249年、高平陵の変を制した司馬懿は、魏の実権を握ります。
しかし、自身は王位にも帝位にも就かず、251年、72歳で死去します。
その後は、司馬師と司馬昭の兄弟に受け継がれます。
まず、司馬師は、西暦254年、自分を排除しようとした、
皇帝、曹芳を排除し、次の皇帝に曹髦(そうぼう)を指名します。
西暦255年、魏の重臣である文欽(ぶんきん)・毌丘倹(かんきゅうけん)が
6万の軍勢で反乱を起こします。
司馬師は、自ら軍を率いて、これを撃破しますが、この時は持病であった
目の下の瘤を手術で取り除いて間もない時期であり、戦争のストレスから、
傷口が開いて目玉が飛び出し、それが元で、乱の平定後7日で死去しました。
司馬昭は、司馬師の後を継いで、西暦257年の諸葛誕の反乱では、
皇帝、曹髦、皇太后を奉じて、26万の大軍で寿春を攻撃して、
反乱を鎮圧しました。
西暦260年、今度は、成長した曹髦が司馬昭を誅殺せんとして、
独断で召使いを集めて、兵を挙げ司馬昭の屋敷を襲いますが、
司馬昭は、腹心の賈充(かじゅう)を使い、太子舎人(たいししゃじん)の
成済(せいせい)に命じて、皇帝、曹髦を殺させます。
司馬昭は、次の皇帝に曹奐(そうかん)を指名します、これが、
曹魏、最後の皇帝、元帝(げんてい)になります。
ポイント10 司馬昭、蜀漢を滅ぼし、その子、司馬炎が中華を統一する
司馬昭は、西暦263年、鐘会(しょうかい)、そして鄧乂に命じて蜀討伐の軍を興します。
すでに、宦官の黄皓の害で、国力が落ちている蜀は、姜維の奮戦空しく
劉禅(りゅうぜん)が降伏、ここに、劉備以来、43年続いた蜀漢は滅びます。
翌年、264年、司馬昭は、辞退し続けていた晋王の位を受けて、
いよいよ、新王朝建国の下準備に入ります。
しかし、265年に、司馬昭は中風で死去し、天下統一は、息子の
司馬炎に託されました。
同年に晋王を継いだ、司馬炎(しばえん)は、すぐに飾り物の皇帝、元帝に
禅譲を迫り、曹魏を滅ぼして、晋を建国します。
その前年の西暦264年、呉では孫休が亡くなり、君子の評判が高い
孫皓(そんこう)が即位しますが、即位するや、暴君に豹変します。
そして、逆らう人間は、目をえぐり、顔の皮を剥いで殺し、
贅沢三昧の生活ぶりをして、呉の弱体化を加速させます。
西暦279年、10年以上も国内固めに専心していた司馬炎は、
呉の乱れぶりに討伐を決意し、翌年の西暦280年魏軍は建業を陥落させました。
孫皓は自らの体を縛り降伏、ここに黄巾の乱から96年続いた、
三国志の戦乱時代は幕を閉じます。
※まあ、しばらくすると、また乱世の幕が開くんですけどね・・
三国志ライターkawausoの独り言
以上が、孔明死後の、ざっくりした三国志統一までの流れです。
三国志を終わらせたのは、司馬師、司馬昭、そして、司馬昭の
息子である司馬炎で、彼が晋を建国したという事になります。
本日も三国志の話題をご馳走様・・