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三国志の徐州争奪戦が何だかややこしい!仁義なき徐州争奪戦を分かりやすく解説

2016年1月11日


 

kawauso

 

西暦190年より10年間、徐州のシマ(縄張り)は陶謙(とうけん)

袁術(えんじゅつ)曹操(そうそう)劉備(りゅうび)呂布(りょふ)のような、

中華の首領(ドン)達のドンパチで仁義なき状態ぢゃった。

裏切り、連合、また裏切り、繰り返される仁義無き徐州攻略戦を、

ワシ、KAWAUSOが解説しちゃるけん、おどれら、よーく聞いちょれよ。

 

※KAWAUSOは東映Vシネマも仁義なき戦いも最後まで見た事がありません。

記事中、語尾が無茶苦茶になりますが、馬鹿にしているわけではなく、

ただ、複雑な徐州争奪戦を面白く説明したいだけなので怒らないでね。

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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この記事の目次

最初に徐州の首領だったのは陶謙

陶謙

 

西暦184年の話じゃあ、黄巾賊の半端モンが粋がって後漢組に盾突いて、

後漢組のシマで、やんちゃしとった事がある。

そん時、徐州(じょしゅう)で暴れとった黄巾賊の半端モンをシメたのが

陶謙の親分でのぅ、後漢組長から、改めて刺史としてサカズキ(徐州)を任されたんじゃ。

 

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後漢組を乗っ取った董卓を突っぱねる陶謙親分

董卓&呂布

 

陶謙親分は、その後、後漢組が次の組長争いで揉めておる時も、

自分は手を出さず、もっぱらシマ(徐州)の経営に余念が無かった。

西暦189年、後漢組が内部分解して、東北の西涼(せいりょう)組の

首領の董卓(とうたく)親分が、後漢組の若組長、献帝の後見人に収まっても

陶謙親分は、、

 

「あんな、どこの馬の骨とも分からん、狂犬風情をワシは

後漢組の頭(かしら)に頂くつもりはないけえのぅ!!」

 

と言っておったんじゃ、、男じゃのぅ、陶謙親分・・

 

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陶謙、朱儁を担いで後漢組に食い込もうとするが失敗

董卓 呂布

 

だけんど、、董卓が鉄砲玉の呂布に殺られて、西涼組の留守を守っちょった

若頭の李傕(りかく)と郭汜(かくし)が洛陽の後漢組事務所をシメて

呂布を放り出して、後漢組を牛耳るようになると陶謙親分は、

元、自分の兄貴分の朱儁(しゅしゅん)の叔父貴に手紙を出して、

 

「朱儁の叔父貴ィ!いつまで李傕・郭汜ごとき若造のケツを拝んどるんかいのぅ?

叔父貴が腰をあげりゃ、後漢組の系列の組の親分衆は、そりゃあ骨も惜しまん、

あんたを後漢組の後見役に推してみせるんじゃがの!!」

 

と、後漢組の組長連が連名で朱儁を若組長の後見に推して

李傕・郭汜を追い払おうと考えたんじゃ

 

こりゃあ、陶謙親分ばかりじゃのうて、孔融(こうゆう)応劭(おうしょう)、

徐璆(じょびょう)・服虔(ふくけん)・鄭玄(ていげん)の組長連も

同様に朱儁の叔父貴を推したんじゃが、朱儁は・・

 

「わしは、献帝若組長の指図に逆らうわけにはいかん・・

李傕・郭汜は気に食わんが、あいつらは馬鹿じゃ付け入る隙はあるわい

組の内側から、わしは後漢組を変えてみせるけぇ」

 

と、陶謙親分と手切れして、李傕・郭汜に丸め込まれおった。

 

 

陶謙、李傕・郭汜に贈り物をし徐州の支配を固める

表情 陶謙01

 

朱儁の叔父貴からして、こう腰抜けじゃあ、李傕も郭汜も当分殺れん

そう思った陶謙親分は、後漢組にせっせと上がったミカジメ料を上納して、

安東(あんとう)将軍、そして徐州牧(ぼく)の肩書きを貰ったんじゃあ

仕方ないけえ、わしらやって、霞(かすみ)喰っとるわけじゃなし、

シノギを守らんといかんでのう・・

 

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陶謙、袁術・公孫瓚陣営に入り、曹操・袁紹陣営と抗争

公孫瓚

 

李傕・郭汜が好き放題しよるから、後漢組の睨みはどんどん効かなくなっての

後漢組で代々、若頭を出しとる袁術と極北で後漢組から分離して組を開いた

公孫瓚(こうそんさん)ちゅう極道のグループ。

ほいから、袁術とは縁続きの若頭、袁紹、それに最近売りだしてきた、

金持ちのヤンキー上がりの曹操ちゅう男がドンパチを開始しおった。

 

陶謙親分は、公孫瓚と袁術の組に下駄を預けて、袁紹のパシリの曹操と

ドンパチ始めたが、この曹操っちゅーのはチビじゃが、喧嘩が強い。

 

朝まで三国志 曹操

 

陶謙親分は、負けてしもうたんじゃ・・

 

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西暦193年、陶謙親分、曹操のシマ(兗州)を荒らし、逆襲される

曹操

 

今考えればの、、ここで曹操にゃ勝てんちゅうのに気がつかんといかんのじゃが

陶謙親分も年を取っておって、まあ、早い話、判断力が落ちておったんじゃ・・

シマ(徐州)では暴れ者で有名な丹陽の兵隊と闕宣(けっせん)っちゅー

組の若いのに煽られて、つい曹操のシマ(兗州)を荒らしてしまったんじゃ

 

陶謙親分からすりゃ、少し撫でた位のつもりじゃったが、曹操はキレた。

 

「おどれ、陶謙、わしのシマで大人しく商売しとるカタギ衆に手を出すとは

どういう料簡じゃあワレ!!ブチコロシたるわ!」

裏切りは許さぬ 曹操

 

曹操は、狂犬みたいな男で、徐州のシマに入ってきてショバを荒らしまくった

陶謙親分は、負けた腹いせに闕宣をブチ殺して落し前をつけさせたが悪い事に、

徐州にいた曹操の親父を陶謙親分の子分が殺してしまっての・・

それにキレた、曹操はまた、シマ(徐州)を荒らして、丹陽の兵隊衆を

サックリ殺ってしまったんじゃ。

 

陶謙、曹操にシマを荒らされた衝撃で死亡、そこに劉備が・・

曹操 黄巾党が仲間に!

 

曹操には、青州兵っちゅー、殺しも何とも思わん鉄砲玉が大勢ついとる。

その凶暴な暴れぶりにビビってしもうた陶謙親分は下駄を預けた

公孫瓚の親分の仁義に頼った。

 

劉備

 

そこで、やってきたのが、劉備(りゅうび)っちゅー公孫瓚親分の若い衆じゃ・・

陶謙親分には、息子も二人おったが、揃ってボンクラ、そいで、

急遽、劉備に組を任せ、陳登(ちんとう)、孔融を保証人として立てたんじゃ、、

西暦194年、陶謙親分は、10年維持したシマ(徐州)を劉備に譲って死んだ。

陶謙親分、オツトメ御苦労さんやした!!

 

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曹操、てめえのシマ(兗州)を呂布に奪われる

曹操 呂布

 

シマが劉備に譲られても、曹操のショバ荒らしは続いておった、、

ぢゃが、人間悪い事は出来んもんじゃ、曹操のシマ(兗州)は、

曹操の兄弟分の張邈(ちょうばく)や陳宮(ちんきゅう)の裏切りで

董卓を殺ったヒットマンの呂布に盗まれおった。

曹操は泡を喰って、徐州のシマから逃げ出して劉備新親分は命拾いしたんじゃ

 

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後漢組の元若頭、袁術、揚州のシマを陥れる

袁術

 

陶謙親分の死から1年ばかり遡るんじゃが、豫(よ)州のシマでも

曹操に負けた親分がおった、そう、元後漢組で何代も若頭を勤めた袁術親分じゃ、

この袁術親分、少々知恵が回る位で威張り腐っとるわりにはドンパチが弱い。

 

袁術

 

曹操のシマ(兗州)に殴りこんだはいいが、逆襲され、逆に豫州に攻め込まれ、

曹操とつるんでおった劉表(りゅうひょう)親分にアジトの南陽郡のシマを

奪われて追い出された。

 

じゃけんど、袁術は悪運が強い親分さんじゃ、そのまま楊州のシマを守っておった

陳温(ちんおん)の親分が死んだのを幸いに、乗り込んで揚州を乗っ取ったんじゃ・・

 

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劉備、袁術の威勢を恐れるが袁紹に付き敵対する

朝まで三国志 劉備

 

揚州と徐州は隣同士じゃけん、劉備親分は袁術を恐れて、

親分(刺史)の地位を譲ろうかと本気で思った位じゃが、結局、袁術親分とは

犬猿の仲の袁紹と手を組んでしもうた。

 

袁紹VS袁術(犬猿)

 

袁術「あん、ジャリタレ、この袁術をなめとんかィ、よりにもよって、

袁紹と盃を交わしくさって、、ええやろ、、いずれ、素巻きにして長江に沈めたるわィ」

 

これで袁術は劉備親分を潰そうと決意するんじゃが、これはもう少し後の話じゃい

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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