理想的な君臣の出会いと評される、劉備(りゅうび)と
諸葛亮孔明(しょかつ・りょう・こうめい)の三顧の礼の逸話。
天才的な才能を持つ、若い軍師と、知名度はあるけど、補佐に恵まれない
将軍の出会いは三国志の名シーンです。
しかし、孔明の神算鬼謀は、残念ながら三国志演義の演出でしかありません。
そうであれば、山奥に引きこもる、孔明のどこに劉備は惹かれたのでしょう?
この記事の目次
三国志演義を排除して見えてくる劉備の深慮遠謀
三国志演義の視点に立つと、劉備が孔明を得ようとした理由は
とても簡単で、ハッキリしています。
曹仁(そうじん)や夏侯惇(かこうとん)の軍勢を計略で瞬殺した
徐庶(じょしょ)が劉備の元を去る時に、
「自分よりも凄い天才軍師がいるから安心して」と
友人である孔明を紹介したからです。
つまり、孔明さえ得れば、曹操(そうそう)なんか余裕で瞬殺だから、
劉備は、孔明をスカウトするんだな、と読者は誰でも分かります。
孔明は演義においては、リーサルウェポンだからです。
しかし、現実の孔明は、演義のような派手な戦勝を重ねたりはしません。
ならば、どうして劉備は、わざわざ自ら、隆中(りゅうちゅう)の山奥に
自分より20歳は年下の孔明を三度も尋ねるという面倒臭い事をしたのでしょうか?
ただのニートでは無かった、孔明の背後の華麗なる人脈
孔明は、隆中で田畑を耕して自活する事、17歳から27歳までの10年間です。
いかにも、長閑な隠居生活に思えますが、トラクターも、何もない古代です。
弟の諸葛均(しょかつ・きん)と、何名かの下僕程度で、
悠々自適な生活なんか出来たのでしょうか?
10年の間には、豊作も不作もあったと思いますし、
孔明が本当に農業だけで、自活できたか疑問なのです。
そこで、調べてみると孔明を中心に連なる、
驚くべき華麗な人脈が浮かんできます。
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孔明の嫁、妹、着々と築かれる人脈
孔明の父は、諸葛珪(しょかつ・けい)といい、章氏という妻との間に、
諸葛瑾(しょかつ・きん)、亮、均、そして、娘を儲けたとされています。
父の珪は、元々は、荊州の人間ではなく、琅邪(ろうや)国の隣の太山郡の丞でした。
丞(じょう)は郡太守の補佐ですが、都には遠く、お世辞にも高い地位とは言えません。
諸葛珪は、寿命には恵まれず、孔明が幼い頃に死去し、
以後、孔明は、その頃の習わしに従い、叔父の諸葛玄(しょかつ・げん)に率いられて、
太山郡から、陽都(ようと)、陽都から、南昌(なんしょう)と南下していきます。
そして、最後に落ち着いたのが、荊州の襄陽(じょうよう)でした。
因みに孔明より7歳年長の諸葛瑾は、
諸葛玄の元から離れて自立し別行動を取っています。
ここで、落ち着いた孔明は、ようやく好きな勉学に力を入れますが、
孔明17歳の時に、一族を庇護してくれた諸葛玄も亡くなります。
病死説も戦死説もありますが、本筋に関係ないので触れません。
しかし、玄の遺産は残されていたので、孔明や、均(きん)は、
すぐに喰うに困るというような事はありませんでした。
さらに諸葛玄は、さりげなく孔明の今後を案じて、手を打っていました。
孔明の姉、或いは妹を、襄陽の名士、龐徳公(ほうとくこう)の息子の
龐山民(ほうさんみん)に嫁がせました。
龐家は資産家でしたので、孔明には、姉、或いは妹の家の援助も期待でき、
贅沢が出来る身分ではありませんが、喰うに困る事は無かったのです。
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さらに強化される人脈、孔明、黄承彦の娘を妻にする
孔明の人脈は、これだけではありません。
高名な学者、司馬徽(しばき)の門下で学んでいる頃には、
黄承彦(こう・しょうげん)の娘の、黄月英を孔明の嫁に、という話が
持ち上がり孔明はこれを受けています。
月英は評判のブスだったそうですが、本当かどうか分かりません。
どうしてかというと、この黄承彦も荊州河南郡の名士だからです。
黄承彦の妻は、荊州きっての名族の蔡帽(さいぼう)の姉だったりします。
また、荊州牧の劉表も、妻が蔡帽の姉なので、黄承彦から見ると、
蔡帽も劉表も義理の弟という事になるのです。
つまり孔明から見ると蔡家、そして劉家は、妻の方を通して親戚です。
そのような名族に連なる孔明への庶民や、他の士大夫階級のやっかみが、
酸っぱい葡萄理論で、いくら名門でも、月英みたいなブスいらねwwという
嘲笑に繋がっただけで月英は、そこまで不細工ではないかも知れません。
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コネクションべったり、呆れた劉備の人生・・
さて、ここから、一見、ただのニートに見える劉備が
孔明をスカウトした、もうひとつの理由が透けて見えてきます。
劉備は、後漢末の乱世をコネで渡ってきたと断言して構わない程に、
コネクションを多用してきた男だからです。
劉備は、幽州の出身で、父は劉弘(りゅうこう)と言いましたが、
劉備が子供の頃に死にます。
これにより劉備の家は貧しくなるのですが、
宗族の劉元起(りゅうげんき)の援助で、高名な学者で政治家の
盧植(ろしょく)の私塾に通っています。
おそらく、劉備が利用した最初のコネと言えるでしょう。
叔父さんに学費を出してもらっている癖に、劉備はあまり勉強をせず、
華麗な服を着て、乗馬、闘犬、音楽にハマり、またアウトローとの
付き合いを好んで、不良少年のボスだったようです。
こんな劉備に、叔父の劉元起は、この子は見所があると言い続け、
劉備の不良ぶりに不満爆発の妻と不仲になりながら援助し続けました。
まさに、劉備、コネにたかりまくりなのです。
盧植時代の学友、公孫瓚の所に転がり込む
やがて、黄巾の乱が勃発すると、校尉の鄒靖(すうせい)の討伐軍に参加して、
大した手柄は挙げていませんが、死んだフリで激戦を切り抜けて、
何とか、小役人に取り立てられます。
その後も、監督官の督郵(とくゆう)に侮辱されたのを怒って、
鞭でシバいて、逃亡するなど、不安定なノーフュチャー人生を送りますが、
最後には、盧植の塾で共に学んでいた兄弟子の悪仲間の公孫瓚(こうそんさん)の
コネに頼って、冀州に行き、対袁紹(えんしょう)戦争で手柄を立てて、
平原国の相に出世したりしています。
その後も、曹操に急襲されて死にそうになった陶謙(とうけん)を救う為に
劉備は公孫瓚の命令で援軍に赴いて、そこでちゃっかり、死んだ陶謙の遺言で
徐州を手に入れたり、その時に配下に加わった、
大金持ちの縻竺(びじく)と親しくして妹を妻にし大金を出してもらったり、
袁紹の息子の袁譚(えんたん)を昔、茂才(ぼうさい)で推挙した縁で、
かつての敵である袁紹の陣営に転がりこんだりします。
このように、一々、数え上げてはキリが無い位に、劉備の人生は、
コネコネコネのコネクションだらけである事に気が付きます。
大体、劉備の最大の金看板である、劉氏だから漢の高祖に連なるんだぜー
という主張も、あわよくば、同じ劉氏の豪族に取り入り、
利権に預かりたいという、とても図々しいコネと言えるでしょう。
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荊州で地盤を得たい劉備
曹操によって、袁紹が撃破されると、荊州の劉表(りゅうひょう)を頼った劉備ですが、
ここでは、①同じ劉氏だから遠い親戚かもね?という劉備のコネと、
②曹操の攻撃を防ぐ都合の良い盾という劉表のメリット以外のコネはありません。
また、劉表が年を取り、病気がちになったとあっては、
劉備は、いきなりポイされない為に、なんらかのコネを持つ必要に迫られます。
しかし、あらかたの荊州の名士層は、何らかの派閥に属していて、
他所者の劉備につけ込む余地がなく、最後に辿りついたのが、いい年して、
仕官もしないで、農夫をしている孔明だったのでしょう。
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歴史に名を残したいが、曹操の下ではそれが難しい孔明
孔明も孔明で、自身を楽毅(がくき)や管仲(かんちゅう)に模していたと言いますが、
曹操の所には、あまたの英傑が集い、今更、自分が仕官しても、
丞相にも成れず、天下に名を残せないのでは?という焦りがあったのです。
しかし、劉備玄徳47歳、大きな手柄、これと言って無し!に仕えれば
どうでしょう、上手く、このおっさんを先導し、自身のプランである
天下三分の計を実現させれば、歴史に名が残る可能性があります。
こうして、荊州の人脈に食い込みたい劉備と、劉備の宰相として、
天下に名を残したい、孔明の思惑が完全に一致したのです。
そう、、劉表が死に、後を継いだ劉琮があっさり曹操に降伏するまでは・・
こうして、赤壁の戦いの後は、孔明の天下三分の計が、
劉備の縋る拠り所になり、元は、孔明を介して、荊州コネクションを築くのが
メインだった劉備の思惑は、よい意味で裏切られていくのです。
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三国志ライターkawausoの独り言
孔明が意図していたか、いなかったかに関係なく、叔父の諸葛玄が、
端緒を付け、孔明を見込んだ多くの名士によって補強された、
荊州コネクションは、その後の孔明の蜀での権力基盤の強化に
多大な貢献をしていきます。
蜀の政権は、当初は、荊州閥が土着の益州閥と協働する形で、
後には、益州閥が強くなるのですが、その政権運営に、
荊州閥の中心にあった孔明の影響力が強いのは間違いないでしょう。
襄陽コネクション 作詞 kawauso 歌 あなた
♪ジグザグ気取った、襄陽(じょうよう)の街並(まちなみ)
振り向いた亮(りょう)の憂いも晴れるよ
目が合えば、遠く蜀(しょく)望む
いつかは、二人で行きたいのさ
必ず、険しい蜀の桟道(さんどう)
派閥を越えた夢もある筈
熱く燃える時代が、
僕らの望みを運んでいくよ
本日も、三国志の話題をご馳走様でした。
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